もう14年も前になる。歴史的V逸のあと。遠征先の横浜の宿舎ホテルで深夜、岡田彰布はコーチ陣を集めた。
「やっぱり優勝を逃がした責任は監督にある。だからオレは辞める」。そこから一気に退陣の流れになった。球団の慰留もあったが、気持ちは変わらなかった。スポーツ新聞に「岡田、辞任!」の大きな見出しが並んだ。
数日後、岡田と喫茶店にいた時、携帯電話にメールがあった。「あっ、ハラからやわ」と思わず笑みを浮かべていた。ハラから? 聞き返すと「ハラやんか。原辰徳やんか」。中身は話さなかったけど「先輩、監督を辞めるって、本当ですか?」という内容だった。
岡田と原…。付き合いは古い。早稲田大の岡田と1年下の東海大の原は互いに意識し合う間柄だった。全日本学生チームでは三遊間を組み、クリーンアップを形成した。ちなみにその時の5番は中央大の小川淳司。現在のヤクルトのGMだった。
「よく飲みに行ったり、メシを食ったりしたわ。原はホンマ、さわやかで、よくモテていた。嫌みのない男で、気が合った」。そんな2人は運命的な進路を歩む。1年早く岡田が6球団競合の末、ドラフトで阪神に引き当てられ、原は複数球団のクジ引きの結果、巨人に決まった。ともに新人王に輝き、阪神と巨人を背負う主力として、長き時間を過ごしてきた。
2008年、岡田の退陣の理由は巨人の猛烈な追い込みを防げなかったことに尽きる。巨人監督、原辰徳に敗れた岡田は身を引くことを決意した。「あの時の巨人の勢いは、恐怖でさえあった」。今でもそう振り返る。
あれから14年…。再び岡田と原の戦いが始まった。まずはドラフト会議でのTG激突。当日の朝、14年前のように岡田の携帯が震えた。原からのメールだった。「先輩、監督就任、おめでとうございます。シーズンで戦うことが楽しみです。ただ、その前にドラフトで争うのはどうも…」といった内容だった。
岡田は返信するかどうか迷った。「ウチが浅野(高松商)を1位でいくのがわかっているようやし。でもな、原にそうやな…と返すのは手の内を明かすことになるし」。岡田はメールを返さなかった。
そしてドラフト会場。予定通り、浅野の交渉権を巡り、2人はぶつかった。抽選会場に入る前、2人並んで歩いた。テレビに岡田が原にしゃべりかけたシーンが映った。「何をしゃべったか? スマンかったな、メール返せずになって言うたら、いやいや、気にしないでくださいって、原は笑ってたわ」。結果はご存じの通り、原がクジを引き当てた。残り福にかけた岡田だったが、TGの前哨戦は負けスタートになった。
巨人に対するライバル心はすさまじいものがある。幼い頃、周りの子供のユニホームは背番号「1」(王貞治)か「3」(長嶋茂雄)ばかり。そんな中、岡田は背番号「11」(村山実)を背負い、よくケンカもした。
その心意気はいまも変わらない。ただ、今はこう口にした。「巨人? 全然、大丈夫よ。強いのはヤクルトやろ。ここを倒さないと、な」。巨人をまるで無視した発言が多く出た。ライバルは巨人ではなく、ヤクルト。しかし、これは本心ではない。岡田の心の中、2008年の屈辱は消えてはいない。最大13ゲームの差をつけていたのに、優勝に導けなかった。後悔は残り続けている。
岡田は原辰徳という監督を高く評価している。いつも言うのが「勝つ術を知る監督」。時に手厳しい表現で、采配をぶった切る岡田は評論家時代、原に関しては、めったに酷評することはなかった。そんな原と再び、相まみえる時がきた。2008年の借りは返す。それが岡田采配の原動力になる。
11月25日が誕生日で65歳になる。原辰徳も64歳だ。球界年長監督の1位と2位が2023年シーズンを盛り上げる。
現在のプロ球界、監督適齢期は40歳代から50歳代。その中での60歳代半ばの2人はある意味、別の光をともす存在といえる。岡田は最近、しみじみと漏らした。「ウチの選手でな、野手の最年長が31歳、投手は32歳。ホンマ、ベテランと呼ばれる存在がいなくなった。こんなチーム、珍しいよな。息子のような年齢やし」と。それもアリじゃないか。そんなチームがあってもいいじゃないか。
岡田彰布、原辰徳の死闘第2章になる来シーズン。岡田は口には出さないが、2008年の逆シナリオを既に描いている。(敬称略)【内匠宏幸】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「かわいさ余って」)




