いまから40数年前、甲子園球場の北側に、小さな屋台風のおでん屋があった。おばちゃんひとりで営む庶民的な店だった。そこの常連が中西太だった。

当時の中西は阪神の打撃コーチ。取材するなら試合後、この店に行けば確実だった。中西はよく食べ、よく飲んだ。そして勘定をすますと、必ず「家に送ってくれ」となった。単身赴任中で、阪神球団は中西のために球場近くにマンションを用意した。そこまで送ると、「まあ、寄っていけ」と誘ってくれた。

部屋に入ると、すぐに服を脱ぐ。パンツ一丁になるが、そのパンツのデカいこと。そしてプリプリの尻は健在だった。

「これが怪童パワーの源ですか?」と言うと、うれしそうに「そうだ。このケツのデカさで、オレはここまでやってこれた。こういう体に産んでくれた母に感謝や」

日本で一番稼いだコーチ! と言うと怒りながら笑っていた。NPBで関わってない球団の方が少ない。監督、ヘッドコーチ、打撃コーチ、巡回コーチに臨時コーチ。誘われれば、ほとんど関わった。「これはお世話になった野球界への恩返し」と言う。だから「カネではない」とした。

その現場を見た。東京渋谷の自宅に呼ばれた時、たまたま某球団幹部から電話が入った。中西との契約更新の話だった。電話口で中西は「ハイハイ、適当に決めてくれていいから。条件? そちらが決めたのでいいですから」。これで契約が完了した。「もっと条件を上げればよかったのに…」と伝えると「契約してくれるだけ、ありがたいと思わな」。その頃にはマネーへの執着はなく、若い選手を教えたいという思いだけだった。

先に書いた大きなお尻の話。中西はよく嘆いていた。「最近の若い子は、ケツが大きくなるのを嫌がる。これ、もったいないのにな」と言っていた。中西の打撃理論。技術的なことに加え、ドッシリとした下半身があってこそだった。擬音でいえば「ブンッ!」とバットを振る。下半身でスイングする。腰のキレ、ケツの張り、足との連動。それを若い選手にたたき込んだ。

監督としては不遇で、向いてなかった。しかしコーチ業は天職と自分でも自信があった。「よく欠点を直したがるコーチがいるやろ。オレは違う。長所を伸ばすことを優先する。長所を伸ばせば、いずれ欠点は消えていく。プロに入ってくるくらいの選手、そらいいところを持っているし、それを伸ばしてやることが、コーチの責任よ」。この信念を貫いてきた。

そのおかげで中西門下生は数知れず。阪神でも多くいた。真弓、若菜、掛布、岡田もそうだった。とにかくコーチングを受ければ、教え子、門下生と呼ばれるようになっていた。それほど影響を受けなかったけど、いつの間にか門下生になっていたこと。「中西さんだから仕方ない。別に否定しないし、教え子でエエやんって感じ」と、多くは苦笑いで済ませてきた。

1980年、岡田彰布のプロ1年目。監督だったブレイザーが途中退団し、監督代行になった中西は岡田を起用し続けた。ブレイザーとは正反対の起用法であったが、これは阪神ファンを強く意識してのものだった。後年「岡田は磨けば光る素材。それは間違ってなかった。ただブレイザーは、使うタイミングを計っていたけど、ファンはそれを待てなかった。難しいところやったけど、それも岡田にはプラスだったんじゃないか」。ブレイザーを批判することはしなかった。

太さんと呼ばせてもらう。教え子の岡田は阪神で2度目の監督になり、立派に戦っていますよ。太イズムというのか、欠点より長所を伸ばすということを、岡田も指導者として続けています。アナタの残した球界での功績、これは間違いなく受け継がれていく。悲しいけど、泣かずにいます。そして太さん、さようなら…。【内匠宏幸】

(敬称略)

08年、阪神春季キャンプ ケージ裏で岡田彰布監督(右)とフリー打撃を見守る中西太氏
08年、阪神春季キャンプ ケージ裏で岡田彰布監督(右)とフリー打撃を見守る中西太氏
23年5月19日、亡くなった中西太さんに黙とうする岡田監督(右)ら
23年5月19日、亡くなった中西太さんに黙とうする岡田監督(右)ら