「何ですか? 何かありますか?」。近寄るたびに球児はニンマリと笑顔を浮かべてそう言った。選手も仕事。記者も仕事。そんなムードを感じさせるプロだった。

泣いてもいいのにと思ったが懸命に涙をこらえたスピーチだった。あのときは思い切り泣いていた。08年のクライマックスシリーズ。この年、2位阪神は指揮官・岡田彰布の下、クライマックスシリーズで中日と対戦した。ファイナル進出がかかったその第3戦。9回に球児は中日ウッズに決勝2ランを浴びた。

監督辞任を決めていた岡田は球児と握手。「お前で打たれてよかったよ」。そう言って男泣きした。もちろん球児もボロボロに泣いていた。眼前で見ていたこちらも胸が熱くなった。

その岡田が「球児はトレード候補だった」と明かしている。「週刊ベースボール」(20年9月21日号)でのコラム。星野仙一から岡田に監督が代わった当時、球児はトレード要員だったという。ヤクルト、広島という具体的な球団名も出ていたらしい。トレードは水面下でいろいろな交渉が行われるもの。これもその1つだったのだろう。

そんな話で、つい、藤浪晋太郎を思い浮かべてしまう。以前にある球団の幹部が「ウチに欲しい。あのまま埋もれさせるにはもったいない」と願っているとコラムで書いた。パ・リーグ球団のすべてから問い合わせがあったとも記した。

プロ関係者なら藤浪の実力は分かる。ここ数年、制球難で悩んでいたとはいえ、環境の変化に期待して欲しがるのも無理もない。しかし同時にそんな存在を阪神が放出するはずもない。

いろいろな考えはあるだろうが個人的には人生は運命に左右される部分が大きいと思っている。人との出会い、環境を含め、自分の力だけで成立しているものではない。だからこそ、与えられた状況に感謝し、そこで最大限、力を出すことが重要だ。

球児が教えたのもそれだと思っている。「失敗と故障」を繰り返しながら、ついに引退試合をやってもらえるまでの選手になった。

来季、藤浪が完全復活すれば阪神にとってこれほど大きなことはない。藤浪も野球エリートから挫折、苦労を重ねて、少しずつ本来の力を見せつつある。球児から晋太郎へ。球児引退の翌日となる11日は藤浪が先発登板だ。シーズン最後に「阪神の顔」の交代劇をしっかり見せてほしい。(敬称略)【高原寿夫】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「虎だ虎だ虎になれ!」)

08年10月20日、ウッズ(右)に2点本塁打を浴びた藤川
08年10月20日、ウッズ(右)に2点本塁打を浴びた藤川