龍谷大平安(京都)がベスト8で姿を消した。0-0の粘り合いが続いたが、延長11回にエース野沢秀伍投手(3年)がサヨナラ打を打たれた。

「奇襲」は成功した。原田英彦監督(58)が先発マウンドに送ったのは2試合で20回1失点の野沢ではなく、滑り込みでメンバーに入れた背番号13の右腕、橋本幸樹投手(3年)。外野手として入学したが監督が「ハシビッシュ」と呼び、期待をかける大器に大一番の先発を託した。

チームは野沢と豊田祐輔(3年)の左腕2人でここまで来た。「右がほしかった。橋本はいい球を投げる。甲子園でどれだけ躍動してくれるか」と、飛躍のきっかけにしてほしい意図もあった。ベテラン監督は抽選で日程が決まった時点で、準々決勝は橋本の先発を決めていたという。

橋本は思い切りいい投球でベンチの予想をいい方に裏切り、明豊打線を2安打に抑えた。7回1死一塁の場面で野沢に交代。高校では3イニングが最長だった右腕は「緊張したけど、途中から楽しくなりました。自信になった。やってきたことが無駄ではなかった」と振り返った。

投手は踏ん張ったが、完封負けが誤算だった。原田監督は「明豊さんはエース級が3人いた。何とか打開しないといけなかったんですが、点を取れなかった」と原田監督は悔しさをにじませ、力負けを認めた。

明豊の川崎絢平監督(37)は智弁和歌山出身。97年夏の甲子園決勝で対戦した際の相手選手だった。きゃしゃで動きのいい好選手だったと記憶する。立命大進学後は、原田監督の自宅近くでよく顔を合わせた。

「着々といいチーム作りをしている。今日はベンチでずっと見ていたけど、ちょっとベテランみたいでしたね。サインを出す姿とか。コートを脱がないんですね。(川崎監督の恩師)高嶋さんも僕もコートは着ない。彼のスタイルでしょう。ノックを見ても落ち着いていた」。笑みを浮かべて、教え子のような若き敵将の印象も語った。

5年ぶりの優勝には届かなかったが、野沢の1本立ちや課題の守備の改善など、夏に向けてステップになる大会だった。試合後のベンチ前。原田監督はエース左腕と2人きりになり、こう告げた。「よく投げてくれた。しっかりご飯を食べて、しっかり走り込んで、また夏に頑張ろう。一回り大きくなって、真のエースになろう」。野沢はこくりとうなずいた。