兵庫大会で昨夏準優勝の関西学院が初戦で加古川西に敗れ、90年から同校を率いてきた広岡正信監督(68)が勇退した。報徳学園時代には大阪桐蔭の西谷浩一監督(52)も指導し、計36年間の監督生活を全う。教え子の1人でもある遊軍の佐井陽介記者(38)が恩師との思い出を振り返った。

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もう22年前のワンシーンだというのに、今も脳裏に焼きついて離れない。

関西学院の広岡正信監督は00年夏、いまだかつてないほど鬼の形相で、高砂球場に怒声を響かせた。

「グラウンドに謝れ!」

当時、記者は2年生部員。そのすさまじい迫力に、ベンチ内でただただたじろぐしかなかった。

その日、チームはプロ注目左腕を擁した尼崎北との兵庫大会1回戦を戦っていた。接戦を迎えた中盤、3年生の1人が背中付近に死球を受けた。腰痛を押して最後の夏に懸けている先輩だった。

140キロ近い直球が患部を直撃し、激痛が走ったのだろう。先輩は思わずバットを地面にたたきつけた。すると、広岡監督は瞬く間にベンチから身を乗り出した。

「グラウンドに謝れ! 道具に謝れ! 相手ベンチに、審判の方に謝れ!」

監督が怒りをあらわにした数秒間、ナインや相手チーム、審判はもちろん、詰めかけた観客までもが息をのんだ。大げさではなく、クマゼミの鳴き声だけが球場に響き渡った。

普段はめったに声を荒らげない。ただ、周囲への感謝や礼節を欠く部員には厳しかった。何不自由なく甲子園を目指せる環境は決して当たり前ではない。審判やグラウンドキーパー、保護者の支えがあって初めて野球ができる。高校生がつい見落としがちな事実を、常日頃から忘れてほしくなかったのかもしれない。

89年春に報徳学園をセンバツ大会に導いた後、90年から母校関西学院の監督を任された。特に就任当初の数年間は苦悩の連続だったという。部員数はわずか10数人からのスタート。照明はおろか、バックネットさえなかった。髪を茶色に染めた主将もいた。

文武両道を掲げる学校方針のもと、特待生は1人も取れない。腕時計をつけてグラウンドに出てくる野球未経験者さえ受け入れ、「全員野球」を貫く他に道はなかった。98年春、63年ぶりにセンバツ大会出場。09年に70年ぶりの夏甲子園を決めた時、入場行進を眺めながら苦労を思い返すと、思わず涙がこぼれた。

今では部員数は常時100人を超え、外野手は人工芝を走り回る。32年前とは比べものにならないほど恵まれた練習環境を作り上げたが、根底にある考え方は変わらなかったようだ。

「私は野球の指導者であると同時に、生徒と向き合う1人の教師でもあると思ってやってきたからね」

監督ラストサマー。9日の加古川西戦に敗れた直後、最後まで部員の整列の乱れに気を配っていた姿に、広岡監督の集大成を見た気がした。【99~01年関西学院高等部野球部、遊軍=佐井陽介】