センバツ優勝から一夜明けた1日、高崎健康福祉大高崎の生方(うぶかた)啓介野球部長(42)はもう頭を切り替えていた。

「夏に向けてどういうふうにチーム作りをしなきゃいけないかとか、コンディショニングも含めてどう持っていくべきか、そんなことをずっと考えてます」

05年から同校の指導に携わり、野球部長として青柳博文監督(51)を支えてきた。優勝が決まると、両こぶしの力を腰の横で凝縮。青柳監督に歩み寄り、抱き合った。

「監督と二人三脚でやってきて、OBたちのことも思い出しながら。すごく感極まりましたね」

健大高崎は母校ではない。県北の沼田高校を卒業した。四半世紀前、99年夏の群馬県大会決勝。

「3番、センター、生方君」

夢の甲子園まであと1勝と迫っていた。立ちはだかったのが桐生第一の左腕、正田樹投手だ。「カーブえぐかったですね。打てなかったです」。第2打席で直球をセンター前に運んだ。4打数1安打。1対10で敗れた。

自身の夢を夢で終わらせた相手が8月、甲子園で優勝した。春夏通じて、群馬県勢の初優勝だった。どんな感情だったか。

「まぁ、基本的には桐生第一を応援してたので。ともに戦った仲間たちですし。日本一になってくれておかげで私たちの名前もパッと出たりしたので」

そう笑う。あれから25年目となる春に「甲子園優勝」に並んだ。

「まぁ、現役と指導者の立場は違うので。ともに戦ってますけどね。この代で勝ったというよりは、今まで作り上げてきた健大高崎の野球で勝ち取った日本一という思いの方が私は強いです。もちろん、結果を出した選手たちには敬意を表しますけど」

投手を中心に指導し、試合運びも担ってきた。決勝では初回、連投の石垣元気投手(2年)がいきなり2点を先制された。

「2巡目くらいで継投に入ろうと準備してたんですよ」

一夜明け、ベンチとしての構想を明かす。しかし箱山遥人捕手(3年)は言った。「インコースが使えるようになって、変化球も定まってきています」。もう1回、もう1回。石垣には「出し切って行け」と指示し、8回まで2失点で投げ抜いたのが優勝につながった。

エースの佐藤龍月投手(2年)に負けじと、最速150キロ右腕の石垣は球の質にこだわってきた。でも生方部長は石垣に言った。

「投球をしろ。ゲームを作れるようになれないと佐藤に追いつけねえぞ」

決勝の大舞台でそれをやりきった教え子をたたえながら、桐生第一の大エースの姿を回想する。

「正田もゲームを作るのがすごくうまかったです。ゲームを作れる投手、タフな投手がそろっているのが優勝するために絶対条件なんだなとあらためて思って。それを支える仲間のバランスも大事。あの時の桐一も捕手がすごくいいリードして。ただ力があるだけじゃ優勝できるわけじゃない。タイミングとかバランスとかいろいろなことがかみ合って、と思いました。あの時の桐一もそんな感じだったなって」

負けも知るから、勝ちの意味が分かる。高校生じゃなくても夢をかなえられるのが、甲子園だ。【金子真仁】