阪神への移籍が決まった糸井嘉男が浴衣姿で頭を下げた人がいた。11月下旬、兵庫・有馬温泉の老舗旅館で行われたオリックスの選手会納会。4年間、ともにプレーした仲間に別れを告げるなか「お世話になりました!」と感謝を伝えたのは、グリーンシステムに勤める岩田陽介さんだった。

 京セラドーム大阪で、グラウンド管理のチーフを務めており、数年前には人知れず、糸井から、ある要望を受けていた。

 「(二塁で)スライディングするところを、ちょっとクッションになるよう、軟らかくしてほしいです」

 盗塁のスタート時に硬い地面を好む選手は多いが、糸井は執着しなかった。むしろ、滑り込む足元にこだわった。特にイベント後は硬くなり、二塁の2メートル手前から土をほぐす。岩田さんは「膝や足首をケガされていましたから」と代弁。左膝の古傷を抱えるが、ケガの恐怖心が消えれば直前までスピードも殺さなくていい。「タッチの差」を制すべく足元も妥協しない。今季は35歳で53盗塁。史上最年長の盗塁王獲得は、攻撃的に走るための細やかなリクエストも背景にあった。

 さて、甲子園である。キーを握るのは「黒土」だ。硬いアンツーカーと人工芝の京セラに比べて、軟らかい黒土は走りにくいとされる。01年から5年連続盗塁王の赤星憲広氏(野球評論家)ですら「雨の翌日は阪神園芸さんが、どれだけ頑張っても走れない。人工芝なら、もっと走れます」と漏らしたという難敵だ。

 通算245盗塁を誇る糸井だが試合数が少ない甲子園では2盗塁。黒土が紡ぐ、新たなストーリーに注目したい。赤星氏の足はチームの武器で、守る野手に配慮した上で走路を固めた。とりわけ、リードする一塁の足場を硬くして1歩目の踏み込みを実現。糸井も試行錯誤して理想の「糸井ロード」を探ることになりそうだ。

 久慈内野守備走塁コーチが「パ・リーグは、すべての球場が人工芝。セ・リーグだと2つ減る。まずは、やってみてになる」と話せば、阪神園芸の金沢健児さんも「アンツーカーの方が固めやすいかもしれないが、我々も仕上げ方によって硬くできる。守る野手もいるし、担当コーチと相談してからになると思う」と説明する。今季、チーム盗塁数はリーグワーストの59個で快足への期待は大きい。

 糸井は11月下旬、甲子園へ。グラウンドを整備中の金沢さんに歩み寄って「よろしくお願いします」とあいさつした。風雨のなかで黒土を味方にする。そんな覚悟がにじみ出ていた。

 ◆酒井俊作(さかい・しゅんさく)1979年(昭54)、鹿児島県生まれ。京都市で育ち、早大卒業後の03年入社。阪神担当や広島担当を経験。今年11月から遊軍。趣味は温泉めぐり。