「野球一筋。あとは、まぁ…番長だったな」。高校時代を表現する星野の答えは単純だった。2年生になり、倉敷商及び市内周辺をほぼ統治下に置いた。

 野球部の仲間や同級生、後輩たちに「あの学校の○×にやられた」と言われたら「よしっ。オレが行く!」と必ずケンカをしに出向いた。「警察にも何度か呼ばれたな。分かってるわけだ。『お、やってるな』ってな。彼らも仕事だから一応、調書は書かなくてはいけない」。

 ただやみくもに、有り余るエネルギーを発散していたわけではなかった。ケンカをする際の3つの決め事だけは守った。

 (1)弱い者いじめはしない (2)相手が何人だろうが1人で戦う

 (3)ならず者の思いに任せた暴力は、絶対許さない

 重量挙げの部室を閉め切って、校内きっての不良と1対1の決闘に臨んだ。窓の向こうにはたくさんのギャラリー…腕を組んだまま見守る教師もいた。星野は不良をボコボコに殴って倒した。「おぉ、星野がやってくれた」と、窓の外からどよめきが起きた。みんなが見ている前で土下座させ「もう弱い者いじめはしません」と言わせた。

 母の敏子が警察に呼び出されたこともあった。「まぁ、迷惑を掛けたよな」。申し訳ないと思ったが、厳しくしかられた記憶はなかった。女手ひとつで星野を育てた敏子は、なぜケンカをするのか何となく分かっていた。息子は、いわゆるアウトローの不良にしか手を出さなかった。

 「オレ、オヤジがいなかっただろ。当時はな、差別があったんだ。『ない、ない』と表向きには言っても、差別はあった。いろんな事情があって当時は…半分近くはな。親がいなくて差別を受けた人間は、ほとんどが、ぐれる。そういう姿を、うんと見てきたから」

 同じ境遇の人間が差別を感じて傷つき、道を外れていく。黙って見逃すことは許せなかった。力ずくでも気付かせたかった。卑屈になるな-。

 「野球一筋」と即答したのは、自分のルーツがあったからだ。「野球しかなかったんだ。野球がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。道を踏み外して、おふくろや部長の角田先生、みんなを裏切るわけにはいかない」。高校に進んで間を置かず、敏子に珍しく強い口調で言われた言葉が今も忘れられない。

 敏子 今の時代、これからの時代は、絶対に大学に進まなくてはダメ。卒業してすぐプロに行くのではなく、大学で勉強しなさい。

 明大を出て中日に進んでから、敏子の言葉を痛感する。入団してしばらくすると、1人の男性に見られていると気付いた。目深にかぶったハンチング姿と鋭い眼光に特徴があり、何となく見覚えがあった。気になる存在になりつつあったある日「広島でスカウトをしている木庭です」と言われた。選手発掘に無類の能力を発揮し、スカウトという仕事を世に広めた木庭教だった。

 木庭 僕は、高校時代の君を本当に取ろうと思った。でもお母さんにお願いにいったら「どうしても大学に行かせたいので」と断ってきた。話し方で君のことを大事に思っていると分かったから、それでいいと思った。頑張って下さい。

 阪神監督となった星野が甲子園で胴上げされた2日前の、03年9月13日。敏子は91歳で死去した。晩年は時間をかけて倉敷市内の各所を回り「仙一が本当にお世話になりました」と頭を下げて回ったという。

 番長でも道を踏み外すわけがなかった。進む道の先には、いつも先回りした母の足跡があった。(敬称略=つづく)

【宮下敬至】