1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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球史に残るダブルヘッダーを演出した1人は投手コーチ権藤博(79)だ。指揮官と対立しつつ、投手陣をまとめあげ、最終決戦まで持ち込んだ。

◆第2試合 8回表にブライアントの勝ち越し本塁打が出ると、その裏からエース阿波野に第1試合の9回リリーフに続いて連投を命じた。

権藤 阿波野は2試合のうち、1試合だけと思ってた。それが1試合目の9回になっちゃったんだね。それで目いっぱい。2試合目に打たれたのもしようがないよね。

阿波野は2日前の阪急戦で8回120球を投げていた。中1日でダブルヘッダーの連投は酷だった。

権藤 それでもやはり最後はアイツしかいなかった。あそこまでみんなでよく上がってきた。よく頑張ったんです。

中日コーチを退いて以降、現場から遠ざかっていた権藤が監督就任した仰木の誘いで近鉄のユニホームを着ることになったのはこのシーズンから。投手陣には「ラスト30試合でチャンスがあれば無理してでも行ってもらう」と言い続けたが仰木との対立の芽は就任直後から生まれていた。

権藤 あるとき突然、先発投手を「代えるぞ」と言ったんだよね。オープン戦ですよ。ビックリした。こういう人なのかと。そこからだんだん関係は悪くなっちゃったんだよ。

登板過多による右肩痛で短命に終わった自らの体験が「肩は消耗品」の持論となった。仰木野球は相性をベースにしたデータ野球。大胆かつ早めの継投も仰木魔術の重要戦略だ。両者の溝は深まっていった。

権藤 あの状況で私までがイエスマンになってしまったら選手はどう思うか。シラケてしまったんじゃあ戦いにならんでしょう。

投手陣の無駄使いを最小限にとどめたからこそ、13日間で15試合という超過酷日程も最終戦まで持ちこたえることができた。仰木も権藤も手段の違いこそあれ、チームとして勝つことを目的としていたことは間違いない。5年間の仰木近鉄の中で権藤が在籍した翌89年のリーグ優勝までの2シーズンがもっともいい結果で終わっていることも興味深い。

「権藤さんがいたからガス抜きになった部分はあると思います。仰木さんも実はわかっていたのではないでしょうか」と当時の中堅野手が明かしたことがある。信念をぶつけあう2人の衝突が選手の士気を高め、爆発的なエネルギーをも生み出したのだろうか。

権藤 仰木さんは私にチャンスをくれた人。同時に監督になったら、これはすまい、という「べからず集」を教えてくれた人。10・19はドラマチックな試合だったね。

両者の確執は89年日本シリーズ終了後に権藤が違約金1300万円を支払って退団するという残念な形で終結した。ただ、激動の昭和野球を生き抜いた2人がときにギリギリの争いを演じていたとすれば…。球史に刻まれる「10・19」の壮絶かつ劇的なドラマも必然だったことになる。(敬称略=おわり)

◆権藤博(ごんどう・ひろし)1938年生まれ。佐賀県出身。鳥栖高、ブリヂストンタイヤを経て中日入団。1年目から35勝。中日、近鉄、ダイエーでコーチ。98年横浜監督として日本一。17年WBC日本代表投手コーチ。野球評論家。