元プロ野球・巨人の球団代表で野球史家の山室寛之さんが、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団売却を巡る内幕を描いた「1988年のパ・リーグ」(新潮社)を出版した。両球団の売却が同年だったのは偶然か。経済界、地元行政、メディアはどう動いたのか。同年10月19日の「ロッテ-近鉄」の裏側で起きた「1988年」の真実が、元社会部記者による丹念で綿密な取材で明らかにされる。

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-執筆の動機を聞かせてください

山室さん あれは1998年(平10)の夏でした。巨人の球団代表に就任して、川島広守コミッショナーにごあいさつに伺いました。社会部記者時代の取材先で、あいさつの後、オウム事件の取材体験など雑談めいた話になったんです。その際、川島さんが、10年前の読売新聞のスクープを振り返って「あの時、俺は本当にびっくりしたんだよ」という話をされたのです。

-スクープ?

山室さん 88年8月28日、南海がダイエーに身売りするという特ダネが、読売新聞大阪、西部本社両本社発行の1面トップに掲載されました。ところが東京本社発行版には1行も載っていない。当時、セ・リーグ会長を務めていた川島さんは「これほどの特ダネが、なぜ東京本社版には載らなかったのか」と長年、疑問に思っていた、と言うんですね。

-東京本社版に載らなかったことを知っていましたか

山室さん 私は88年当時、社会部デスクとしてリクルート事件を担当していました。政財官界を揺るがす戦後最大級の汚職事件です。取材班の部屋にこもっていたこともあって、まず、大阪と西部の1面トップ記事が、東京に載らなかった、という事実を知らない。東京が、どういう判断で、この原稿の掲載を見送ったのかも分からない。「まさか」と思いながら調べた結果、川島さん指摘の通りでした。

-謎は解けましたか

山室さん この手の話になれば、各本社の運動部、社会部、経済部の記者が連携して取材するのが常です。大阪、西部の紙面に、この記事が載ることを東京が知らないはずがない。当然、連絡はあったはずです。ではなぜ東京に載らなかったのか。巨人代表という立場ですから取材に動けば、あらぬ誤解を招きかねない。実際に取材を始めたのは2015年ころです。30年近く前のことですから、亡くなった方も少なくない。当時の記事を読み込み、可能な限り現存の球団関係者、各紙の記者の動き、証言や資料を集めました。

-メディア各社が、南海-ダイエーの件で血眼になっている間、阪急-オリックスの球団買収がひそかに進みます

山室さん 関西にパ・リーグ私鉄3球団が密集している状態に、将来の展望はなかった。加えて鉄道という地域産業が球団を持つ意義も80年代後半には、すでに薄れていた。両球団の身売りは歴史の必然でした。しかし、身売りが同じ年だったのは、果たして偶然だったのか。両者は、どこかで濃密に関連していないかと仮説をたてました。

-偶然ではなかった、と

山室さん 調べていくと、88年8月、沖縄・宮古島に関西財界の若手幹部が集まった異業種「交流会」に行き当たった。この会で出席者が、何げなく語った一言がきっかけで、もう1つの球団売却が動きだした。

-阪急とオリックス?

山室さん そう、阪急とオリックスです、しかも宮古島での交流会は、南海の身売りが表面化する直前です。会には阪急電鉄が身売りのタイミングを模索していることを知る電鉄社員も出席しており、「好機到来」とばかりに、阪急の身売りが南海の身売りと意図的に連動させる形で極秘に進められた。結論は南海の身売りがなければ、阪急は球界に残っていた可能性が高いでしょう。

◆山室寛之(やまむろ・ひろゆき)1941年(昭16)中国・北京生まれ。64年、読売新聞入社。警視庁キャップ、社会部長、西部本社編集局長などを歴任。98年から2001年まで巨人球団代表を務める。現在は野球史家として活動。著書に「巨人V9とその時代」「背番号なし 戦闘帽の野球」など。