プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。京都府出身。

野村氏のプロ野球生活は激動の連続だった。峰山高時代は無名の存在。54年にテスト生として南海に入団した。3年目にはレギュラーに定着。63年には52本塁打、65年には3冠王に輝くなど強打の捕手としてチームを支えた。大学野球の花形で華やかな巨人・長嶋とたたき上げの自身を比べ「長嶋はヒマワリ。私は浜辺に咲く月見草だ」とたとえた名言でも知られる。70年から選手兼監督としてチームを率い、73年にはリーグ優勝を果たした。

だが、77年に女性問題が発端でフロントの信頼を失い、シーズン中に監督を解任された。当時、交際していたのが17年12月に亡くなった沙知代夫人だった。南海退団後は“生涯一捕手”としてロッテ、西武でプレー。80年限りで現役を引退した。

野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げてチームを鍛え、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。

ヤクルトでの実績を買われて98年オフ、三顧の礼で阪神監督に迎えられた。翌99年の春季キャンプでは、初日夜のミーティングで、自らが執筆した分厚い教本を全選手に配り「成功は結果であって、目的であってはならない」などの「ノムラの考え」を約1時間半にわたって講義。チームの意識改革に取り組んだ。また、広い甲子園で機動力を生かすため、赤星ら俊足の選手をそろえ「F1セブン」と命名するなど低迷期の阪神を変えようとしたが、結果は出ず3年連続最下位に終わった。

01年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎をつくったともいわれる。

その後、社会人シダックスの監督を経て楽天監督を務め、09年に退団。現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍していた。

今年1月20日には都内で開催されたヤクルトのOB総会に出席。息子の克則楽天1軍作戦コーチが押す車いすに乗り、笑みを浮かべながら登場。「しばらくヤクルトの優勝を聞いていませんが、なんとか今年ぜひ優勝してもらいたい。高津監督、僕に用事ないですか? ヘッドコーチを喜んでやりますよ」と“野村節”でチームにエールを送っていた。

◆野村克也(のむら・かつや)1935年(昭10)6月29日、京都府生まれ。京都・峰山高から54年にテスト生として南海入団。ロッテ、西武で80年まで名捕手として活躍し、歴代2位の657本塁打を記録。65年には2リーグ制後初の3冠王に輝いた。70年から選手兼任監督を8年務め、73年にリーグ優勝。45歳の80年に引退。首位打者1度、本塁打王9度、打点王7度。最優秀選手5度。ベストナイン19度。89年野球殿堂入り。93年正力賞。ヤクルト監督時代に日本一3度。01年に阪神監督を辞任後、02年11月~05年11月に社会人野球シダックスの監督を務め、06~09年に楽天監督。監督通算1565勝は歴代5位。78年4月に再婚した妻の沙知代さんは17年12月8日、虚血性心不全のため85歳で死去。息子の克則は父が監督時代の95年にドラフト3位でヤクルト入りし、今季は楽天の1軍作戦コーチ。