阪神藤川球児投手(40)が今季限りで現役引退することが31日、明らかになった。阪神球団が同日、発表した。阪神投手コーチ時代に藤川のリリーフ起用を進言した中西清起氏が振り返った。

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球児にとってプロ野球人生の転機は、リーグ優勝でブレークした05年だったのは間違いない。久保田、ジェフ・ウィリアムスを加えた3人が、“束”になって7、8、9回を守り抜いた。

いわゆる「JFK」の誕生だ。日刊スポーツが名付け親で、当時の流行語にもなったほどだ。その中心的な役割を果たしたのが「7回の男」だった球児。潮目が変わりやすいイニングを封じ、実に80試合に登板してくれた。

そのリリーフ転向のきっかけは前年の04年にあった。沖縄宜野座キャンプの第2クール初日。フリー打撃に登板した球児が右肩の違和感を訴えた。そのやりとりは1軍投手コーチで隣でボール渡しをしていたからよく覚えている。

そのまま本隊からリハビリ組に回したが、その年はまだ先発か? リリーフか? で起用法を迷っていたところだ。リハビリ、トレーニングを経てファームから復帰してきた球児を見たわたしは、岡田監督にリリーフ起用を進言した。

その翌年にリーグ優勝を果たしたわけで、「7回の男」を作ったのは、大きな賭けでもあった。球児はまだ体の線が細くて真っ向勝負にいく性格と球質の伸びしろだけが頼りだった。そのうちスピンの球児、パワーの久保田の若手が急成長していったのだ。

その後の球児は年々体が大きく、ボールも強くなった。火の玉ストレートにも磨きがかかった。本人の努力のたまものだろう。メジャーリーグに行かず阪神にとどまっていれば優勝しているのに…と思ったことも1度ではない。

今年6月25日のヤクルト戦(神宮)で西浦にサヨナラ本塁打を浴びた。その瞬間をみたわたしは「球児の年齢を感じさせたストレート」と評論しながら、内心は心配していた。今季限りの引退は自らの決断だろう。

高知商、阪神と同じ道を歩いた後輩として誇りに思う。ごくろうさま。幕末の志士、坂本龍馬は四国山脈を背に、下がることなく水平線の向こうのメリケンを臨みながら「前へ、前へ」と新時代を築いた。球児も「土佐のいごっそう」である。潔い花道だ。(日刊スポーツ評論家)