野村克也氏が84歳で亡くなってから、11日で1年を迎えた。今も「ノムさん」の考え方や教え子たちは、球界のいたるところで脈打つ。ヤクルト山口重幸スコアラー(54)は、コロナ禍の今年、18日から沖縄でスコアラー業務を開始予定。「野村ノート」とともに、今は都内で新シーズンへの準備を進めている。

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紙箱にしまってあった手のひらサイズのノートは、四半世紀前のものとは思えないほどきれいだった。山口スコアラーは「野村さんは、これが頭に入っていれば、みんな指導者になれるって言ってたよ」と懐かしそうにページをめくった。何度も読み返したにもかかわらずきれいなのは、大切に扱ってきたからだ。

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1995年の米国ユマ。前年に阪神から戦力外通告を受けた山口は、野村監督に拾われる形で新加入選手としてヤクルトのキャンプに参加した。連日、30人ほどの選手を一堂に集めて行われたミーティング。必ず最前列の席に陣取り、ペンを走らせた。2つ並んだホワイトボードが、野村監督の字で埋まっていく。板書に追いつかない。2つ目のホワイトボードに話が移ると、松井優典総合コーチが1枚目を消しにかかる。ちょっと待ってください、とも言えないピリピリとした空気。あっという間に時間が過ぎた。

2月1日のミーティングは「『野球が大好きだ』の心境が仕事と遊びを1つにまとめ、生活していけるようになる」という言葉で始まった。「固定観念は悪、先入観は罪」「人の値打ちは失敗するかしないかではなく、失敗から立ち上がれるかどうかで決まる」など、その後も人生訓が並ぶ。時には哲学者ソクラテスの言葉も引用された。バントシフトやサインの出し方など実技的なことも教わったが、山口がノートに赤ペンで丸く囲ったのは、人生訓が多かった。2月のキャンプでの講義を3年間受けて完結する話だが、1年目から熱量は高かった。

高校時代はスター街道を走った。岩倉のエースとして84年センバツで快進撃。準々決勝で取手二(茨城)を破り、準決勝で大船渡(岩手)を下した。決勝は桑田と清原を擁するPL学園(大阪)が相手だった。1安打完封勝利で紫紺の優勝旗を持ち帰った。ドラフト6位で阪神に指名され入団。内野手へ転向したが、一流と呼ばれる選手にはなれなかった。そして戦力外通告。頂点とどん底を知る男には、野村監督の教えが、ことごとく胸に響いた。

拾ってもらった恩に報いたかった。再出発のユマキャンプ。自分の練習が終わっても、最後まで球拾いを続けた。シーズンに入り、守備固めで使われる機会が続いた。たまに失策をしても野村監督から責められることはなかった。「山口がエラーするなら仕方がない」と言っていたと、人伝えに聞いた。技術ではなく、生き方を見てもらえた。秋にはオリックスを破り、日本一の輪の中にいた。

現役を引退し、打撃投手やスコアラーとして、球団に携わるようになった。日々の練習の中で若手選手から、何のために練習するんですか? と聞かれたことがある。その答えも野村ノートにあった。「練習というのは結果を求められない。だから、いろいろ試せる場なんだ。試すことによって野球を長く続けるための工夫ができる」。練習は大好きな野球を少しでも長く続けるためにやるんだ、ということをかみ砕いて伝えた。自分の言葉に置き換えられるほど、血肉となっていた。

20年2月10日。春季キャンプ中の山口は沖縄にいた。寝苦しく、日付が変わった頃にふと目が覚めた。「何かいやな感じがした」。翌朝、聞かされたのは野村克也死去の報だった。「一番、影響を受けた人だった。野村さんと出会わなければ、今の自分はなかった」。気がつくと、父親が亡くなった時にも流さなかった涙がこぼれていた。

大好きなことを仕事にできていることへの感謝がある。それは野村監督への感謝と重なる。ホワイトボードの言葉を一心不乱に書き写した頃から変わらずやってきた。今年も、野球とともに生きる。【竹内智信】