日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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徳島市から南へ約80キロの先に、宍喰(ししくい)の町がある。高知との県境で、06年(平18)に海南、海部、宍喰の3町が合併し、現在は海陽町を名乗っている。

南東の海岸線から黒潮が流れる太平洋を望み、1000メートル級の山々がその町を見下ろす。自然豊かな南国情緒のある小さな町から、2人のヒーローが生まれた。

その1人は、日本ゴルフ界の隆盛を築いた功労者で、ツアー最多勝男のジャンボ尾崎こと、尾崎将司(74)。1964年(昭39)春のセンバツで海南高のエースとして初出場し、全国優勝を成し遂げた。

投手として、福岡が本拠の西鉄ライオンズに入団。プロゴルファーに転身し、スターダムにのし上がった。そのゴルフ界のレジェンドのふるさとが宍喰だった。

そしてもう1人、阪急ブレーブスの監督として、プロ野球界を制した男がいる。上田利治だ。パ・リーグ優勝5回、75年から3年連続日本一。阪急の第2次黄金期を築いた。

同じ宍喰出身だった2人の実家は、5軒隣にあった。野球とゴルフ。年の差は10歳だったが、尾崎は海南高の先輩で、郷土の先人に敬意の念を抱いていた。

尾崎 わたしとは10年違いの先輩と後輩であり、身近には感じられなかったですが、初めてのプロ選手であり目標でした。

コーチだった上田は73年オフ、名監督の西本幸雄からその座を禅譲された。「エエで! エエで!」の上田節。2年目の75年にリーグ優勝、広島を退けて球団悲願の日本一を遂げた。

76、77年は長嶋巨人を下して3連覇。78年は日本一を逸したが4回目のリーグ優勝。西武全盛だった84年のリーグVは、端境期のチームを頂点に導いた。

特に78年ヤクルトとの日本シリーズで、大杉勝男の本塁打の判定を巡って、1時間19分の激しい抗議で食い下がったさまは、勝負に対する執念の表れだった。

宍喰小4年から野球を始め、宍喰中、海南高、関大を経て59年に広島カープに入団。プロでは実績に乏しく、控え捕手にすぎなかった。実働わずか3年で現役を引退。ただ大変な勉強家で、コーチとなってからは複雑なエンドランを編み出すなど、緻密な作戦を用いた。

尾崎 宍喰という町は、昔から他の町にない祇園祭とかがあって、京の流れの文化を受けていると伝えられています。だからアカ抜けた人物が時々出るのだと思います。

地元で行われる「宍喰祇園祭」は、毎夏の年中行事だ。みこしをかついで、勇壮な山車(だし)、関船が町を練り歩く。尾崎は故郷を思い出しながら、独特の言い回しをした。

尾崎 リーダーとはいろいろと型をもちます。上田監督の型というのは、選手にとって父であり、またあるときは兄であり、その共に生きる代表例でしょうね。

名選手ではなかったが、監督通算1322勝は異例といえる。無名だった男は、チーム全体を掌握しながら勝つことで、“知将”の称号を手に入れるのだった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

◆尾崎将司(おざき・まさし)1947年(昭22)1月24日、徳島県生まれ。海南高(現海部高)で投手として活躍。64年の選抜高校野球で初出場初優勝。翌年プロ野球西鉄に入団。67年の退団後、ゴルフに転向。70年プロテスト合格。71年に日本プロ選手権で初優勝すると、以来ツアー94勝を含む通算113勝。賞金王12回。10年に世界ゴルフ殿堂入り。近年は原英莉花ら女子選手の育成でも知られる。181センチ、90キロ。