阪神藤浪が“誕生”した運命のドラフト会議、12年10月25日から日刊スポーツでは緊急連載「虎になる 藤浪晋太郎という男」を開始。生い立ちから知られざるエピソードをあますところなく伝えた。光り輝く18歳のプロ入りまで、スーパールーキーの歩みを再構成してお届けします。

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駅の改札口で決まって言われた。「切符お願いします」。5歳の頃にはすでに身長が130センチ以上あった。通常、幼稚園児は無料で電車に乗れるが、少年は駅員に毎回のように止められた。「この子は幼稚園児なんです」が、母明美さんの口グセ。「小さいときから、小さいときがなかった」と明美さんは言う。

藤浪晋太郎が生まれたのは1994年4月12日。夕方の出産予定が早まり、仕事に出ていた父晋さんも大阪・松原市内の病院に駆けつけた。午後0時53分、元気な産声をあげた。3620グラム。「二重まぶたでよかった」。これが、母明美さんの第一印象だった。3カ月で体重は8キロを超えた。1歳までに歩き出し、3歳で自転車に補助輪なしで乗った。「幼稚園から毎年7センチペースで伸びた」(明美さん)。すくすく育った晋太郎が、運命のスポーツ「野球」と出会ったのは小学1年生の夏だった。

地元の少年野球チーム「竹城台少年野球クラブ」に入部した。のちに同クラブでコーチ、監督を務める父晋さんは「センスというものは全く感じなかった」。岸和田高で野球部に所属していた元高校球児の父晋さんは晋太郎に野球を強いるつもりはなく、サッカーボールやゴムボール、大小さまざまなボールで遊ばせていた。気がつけば晋太郎はプラスチックのバットと、小さいゴムボールで遊ぶ頻度が増えていた。すでに入部していた友人に連れられ練習を見学し、入部を決めてしまった。当時すでにスイミングスクールと英会話教室に通っていたが、「3つめの習い事」として野球をスタートさせた。

「ボール、フォアボール」。四球を与え、右手で首をかきむしる。1度崩れ出すと止まらない。続く打者にもまた、フォアボール…。小学生時代は、甲子園で見せた威風堂々の姿とは似ても似つかなかった。3年になる頃には下級生の試合で投手をした。上級生がいる試合では内野、外野もこなした。6年間で、二塁以外すべてのポジションを守った。しかし本職の投手で、晋太郎は苦しんだ。

年に7センチのペースで伸びる身長は、投球フォームを日々、変化させた。手応えをつかみかけても、1カ月もすれば、自分の体は別人になっていた。父晋さんは「辛抱してやっていれば、そのうち固まってくるから」と励まし続けた。その言葉を胸にブルペンで、打撃投手で、投げ続けた。

小学生最後の大会で自信をつけた。6年冬、高石市長杯を制した。それまで、ここぞというところで弱気の虫が出て、接戦を落としていた。最後の最後で、大阪・堺以南の小学生にとって大きな目標の「泉州王座決定戦」出場を決めた。

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中学では硬式野球クラブの「泉北ボーイズ」に進むことを決めた。一方で、2歳から通い始めたスイミングスクールも、やめずに通い続けていた。

スクールでは授業で使う自前のフィンを忘れたことがある。橋崎由美子コーチは「あんたの足がフィンみたいなもんやから、そのまま泳ぎ」。スクール内でレンタルしてもらえるはずが、すでに足が30センチ近くまで成長していた晋太郎に合うものがなかった。素足のまま周囲と変わらぬ速さで泳いだ。

2歳のころ、母明美さんとともにプールで遊ぶ「ベビーコース」に入会した。半年後に1人で泳ぐ幼児コースに入った。「大きい手でパワーもある、大きいエンジンがついているようなもの」と橋崎コーチ。競技に参加しない一般コースでは最もレベルの高いクラスに属した。クロール、平泳ぎ、背泳、バタフライを自在に操った。200メートル個人メドレーで規定タイムを切り、日本水泳連盟の泳力検定1級を所持する実力だった。

中学で「泉北ボーイズ」に入ったのちも、中学3年の15歳まで週1度の水泳を続けた。水泳の効果が、野球にも表れていた。水中で体を動かすことで得られるリラックス効果。水泳の動きで鍛えられる筋肉は、野球の練習や陸上でのトレーニングでは鍛えづらく、それも武器になった。

「すごい大物になるんじゃないか」。泉北ボーイズの下埜昌志監督は中学1年で入団してきた晋太郎を見て確信した。目を見張ったのは身体の大きさや運動能力ではなく、野球に向かう「姿勢」だった。全体練習で手を抜かず練習後も1人、黙々と走った。誰にそうしろと言われたわけでもなかった。「これは、というものがあった。常に目的を持って、野球に取り組んでいた」と、下埜監督は振り返る。その時点で身長は180センチを超え、3年生より高かった。未完の大器を預かった責任を感じ、育成計画を始動した。

「打たれてもええから、全部真っすぐで勝負しろ。中学なんかで優勝してもしゃあない、高校行ってから優勝しろ」

晋太郎の可能性を見据え、将来のためになる投球を教えた。要所でスライダーやカーブといった変化球を使えば、勝てた試合もいくつもあった。それでも「中学生の段階で逃げのピッチング、かわすピッチングを覚えていたら成長しない」と心を鬼にし続けた。当時の直球はスピードこそ130キロ台半ば。結果として、武器となる角度のある直球が磨かれた。

1学年上に、飯塚孝史投手(現大阪ガス)がいた。高校では履正社のエースとして11年センバツで4強入りした右腕。晋太郎より20センチ近く小さい飯塚の投球は、小気味よいフォームから抜群の制球で打ち取るスタイル。直球の速さなど、晋太郎が上回る部分もあったが、強豪チーム相手や優勝のかかった試合は必ず飯塚が起用された。晋太郎は投手として必要なものを、身をもって感じた。

最上級生となり泉北ボーイズではエース。小さな大会での優勝はするが、最後まで全国大会には手が届かなかった。3年春。春の全国大会出場をかけた阪南支部予選決勝・堺ビッグボーイズ戦も最終7回1アウトから追いつかれ、延長ではのちに大阪桐蔭でバッテリーを組む堺の森友哉捕手に試合を決められた。

夏も同様に全国大会予選の決勝で、1点差ゲームを落とした。AA世界選手権(台湾)の日本代表に選出され、ベネズエラやオーストラリア、台湾などの16歳以下の代表チームと対戦した。この大会で晋太郎はかなり打ち込まれた。「打たれてもいいから直球勝負」「優勝は高校でしろ」と言い聞かされた中学時代は、実際に何度も何度も打たれた。のちに「勝てる投手になる」が口グセになる晋太郎は、悔しい経験を胸に高校野球の舞台へと歩みを進める。

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中学3年の夏休みを終え、晋太郎は最後まで進路を決めきれずにいた。さまざまな学校から声がかかり最終的に選んだのは大阪桐蔭。中学2年生だった08年夏に全国制覇を達成した大阪桐蔭の中心に、泉北ボーイズの先輩がいた。ただ甲子園が狙えるチームではなく、優勝が狙えるチームとして進学を決めた。

入学前、野球部入部予定者の招集日に何と晋太郎は遅刻した。英検準2級の面接試験と重なっていた。高校では取得のチャンスはないと考え「受けさせて下さい」と大阪桐蔭に連絡を入れた。英検準2級も無事取得できた。

入学した当初は父晋さんに「背番号1をもらうのは無理かも」とふと漏らした。名門校は強者があふれていた。愛媛のシニアリーグで春夏全国8強の経験を持つ右腕沢田圭佑と、軟式経験しかないが、晋太郎に迫る長身を持つ左腕の平尾奎太(けいた)らがいた。

くじけそうになったが、1年夏から同級生を抑えベンチ入りした。2年春にはエースナンバー「1」を背負った。エースとして初めて甲子園をかけて戦う2年夏の大阪大会は、大きな転機となった。

初戦は1人で投げきり、関大北陽を完封。以降は継投を中心に勝ち上がった。準決勝で泉北ボーイズの先輩飯塚がいる履正社と対戦し、1失点完投した。

決勝戦。東大阪大柏原に序盤で5点リードを奪った。この大会防御率0・00の晋太郎は、先発したが踏ん張れず7回途中5失点で降板。救援陣も流れを止められず、最後は押し出し死球でサヨナラ負け。一塁ベンチで晋太郎は泣いた。

秋の近畿大会でも、勝てば翌春のセンバツ出場を当確させられる準々決勝天理戦で試合中に指をケガし、7回8失点で敗戦。センバツ出場は1月末の発表まで、微妙な立場となった。

「ここ一番に勝てないことを克服したい」。眠れない冬…。両足を広げ、上体を地面に近づける地道な股割りを繰り返し、180度の開脚ができるようになった。走り込む量も増やした。そして正月、大きな誓いを立てた。

「選抜に出られたら、甲子園の春夏連覇と国体の高校3冠を取りたい」

待ちわびた選抜出場が決まり、初戦で大谷翔平のいる花巻東を破った。僅差の苦しい試合が続いたが優勝を成し遂げた。第1関門を突破した大会後、夏に向けて約1カ月間は徹底して走り込んだ。ストレートとスライダーに頼っていたが、カーブやチェンジアップにも安定感が増した。

夏。大阪大会準々決勝では2年夏に敗れた東大阪大柏原に雪辱。決勝の履正社戦では8失点したが、味方打線と救援した沢田圭佑に助けられた。そして甲子園。晋太郎は投げるごとに調子を上げていった。準決勝、決勝で連続完封し、春夏連覇を達成した。大舞台に立つたび晋太郎は自分でスケールアップした。

決して初めから何でもできる、天才やスーパーマンではなかった。大きな体は武器であり、ハンディでもあった。苦しみながら、もがきながら、最後の最後にベストピッチを繰り出した。秋には国体も制し、新年に立てた「高校3冠」の目標を有言実行した。努力に努力を重ね、勝ち取った勲章を引っさげ、プロの世界へと飛び込む。【山本大地】

(敬称などは、日刊スポーツ掲載当時=12年10月26日~11月5日付=のまま)