慶大(東京6大学)が福井工大(北陸)を下し、87年以来34年ぶり4度目の優勝を果たした。

コロナ対策で胴上げはなかったが、堀井哲也監督(59)は就任2年目で大学野球の頂点に立った。前職のJR東日本監督としても、11年に都市対抗優勝。アマ球界で名将の地位を確固たるものとしたが、監督としてキャリアをスタートさせた当初は「チームがばらばらになってしまった」という苦い経験を味わった。

現役時は外野手。慶大を卒業後、三菱自動車川崎で4年間プレーし、都市対抗にも出場した。マネジャーを経て、93年に三菱自動車岡崎のコーチに転身。97年、35歳で監督となったが、ここで壁にぶつかった。「コーチの時は、それなりにやっているという自負もありました。ですが、コーチから監督になって、立ち振る舞い、言葉、選手への指示の仕方が幼かった」。1年目、激戦の東海地区で結果を残せず、チームの雰囲気も悪かった。

そんな時、たまたま見たテレビのバスケットボール中継に目を奪われた。後に「大きなきっかけだった」と話す出会いがあった。元女子日本代表監督で、当時は秋田経法大(現ノースアジア大)を率いていた中村和雄氏(80)の解説に心を奪われた。

「面白い発想をする人だなあと。視点が人と違って、興味を引かれました」。ツテを頼って、秋田まで会いに行った。一緒にゴルフをし、きりたんぽ鍋をつついた。別れ際「監督、しっかりやらなきゃダメだよ」と言われた。たった一言に勇気をもらった。

「競技は違えど、長いこと、指導者として成功した方。わらにもすがる思いでした。力強い言葉で。やるしかないんだな、と。選手に好かれようじゃなく、チームが勝つために監督がどう判断するか。中村さんの言葉を、そう受け止めました」。

2年目の98年、早くも都市対抗出場を果たす。「1年目は僕だけが勝ちたかった。2年目は選手が勝ちたくなった。監督は監督の仕事を100%やる。選手は選手の仕事を100%やる。そういうチームになっていきました。私の監督としての原点です」。

監督とは「選手がうまくなるため、勝つために存在する」と断言する。「監督個人の都合とかで動いてはダメ。年々、強く戒めて思っています。特に大学生の監督になってから、余計にそう思っています」と続けた。毎試合、自らのタクトを振り返る。毎朝、目が覚めたら、寝床についたまま、今日は選手にどんな言葉をかけよう、と考えるのも習慣だ。

慶大では、1年目は春秋とも、あと1歩で優勝を逃した。迎えた2年目の春、開幕黒星からの8連勝で、安定した強さを発揮。リーグ戦を制すると、そのまま全日本でも頂点に立った。【古川真弥】