甲子園最速は01年夏、日南学園(宮崎)の寺原隼人投手(3年)が記録した158キロ。アトランタ・ブレーブスのスカウトのスピードガンで計測された。あれから20年目の夏、記録はまだ破られていない。19年に現役引退し、現在は沖縄の独立チーム・琉球ブルーオーシャンズで指導する寺原隼人投手コーチ(37)が、当時を振り返る。後編ではどのように158キロを投げられるようになったのか、プロ入り後の変化、尊敬する松坂大輔への思いなどを語った。(敬称略)【石橋隆雄】(後編は無料会員登録で読むことができます)

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寺原は中学時代、軟式野球部だった。中学から硬式で無理をさせないという父親の考えがあった。赤江東中の野球部で全国大会にも出場したが、日南学園に入学した時は132キロだった。「厳しい練習をしていたら、自然と球が速くなった。冬は球を使わないで、いわゆる昭和のトレーニングでした。ランニングはもちろん、手押し車や、人をおんぶしたり。ウエートトレーニングはまだ流行っていなかった。器具ではない重さで鍛えましたね。冬を越えるたびに速くなっていて、それが楽しかったですね」。

1年の冬を越えて140キロを超すようになった。2年秋には147キロ、もうひと冬越すと150キロ以上が出るようになっていた。「高校の時は、ホント、真っすぐをどれだけいい真っすぐにするか、腕振って、躍動感のあるフォームで、とりあえず自分をアピールしようとか、速い球を投げようとか、本当に子どもの考えでしたね」と純粋に球速を追い求めた。3年春から捕球技術が高い中原幸広捕手(3年)とコンビを組んだことも追い風となった。「もともとめちゃくちゃ性格がいいんですよ。なので、いろいろ話し込んで、コミュニケーションも取れたし、(体が)小さいのに、捕るのが上手だったので、投げやすくプラスになりましたね」と、伝説の球を受けた女房役を思い出した。

高校NO・1投手として、01年ドラフトでは巨人、中日、横浜(現DeNA)、ダイエー(現ソフトバンク)の4球団が1位指名で競合。当時監督だったソフトバンク王貞治球団会長(81)がくじを引き当てた。「王会長が引いてくれた。今思えば、いい野球人生だったと思います」。18年間でダイエー、横浜、オリックス、ソフトバンク、ヤクルトと渡り歩き303試合に登板、73勝、23セーブを挙げた。

プロでの最速は157キロ。高校時代を超えることはできなかった。「プロになったらスピードじゃないというのが、すぐに分かった。スピードより勝ち星が欲しいと変わりましたね」と、高校時代のように球速を追い求めることはなかった。15年からは3年間、ソフトバンクで松坂とも一緒にプレーした。「僕の中ではレジェンド。松坂さんのおかげで甲子園もプロも目指した。同じユニホームを着て、プロでできるなんて思っていなかった。一緒の空間が楽しかったですね」。松坂とはプライベートな話もいろいろした。「実際に会って話したら、すごく謙虚で全然、テングにならずに。『あっ、これが本当のスーパースターなんだ』って思いましたね」。

福岡・筑後市のファーム施設のトレーナー室にある冷蔵庫には松坂が誰でも飲めるようにと常にコーヒーなど飲み物を買って入れていた。退団し中日に移籍した時に寺原は空っぽの冷蔵庫の写真を松坂に送ってさみしさを伝えた。「冗談半分で松坂さんに送ったんですよね。そうしたら、松坂さんからケースで飲み物が、筑後に届いて『これでいい?』って。もう、ビックリしましたね。違うチームになっても、そうやってしてくれる。やっぱり、やることが違うなと。かっこいいって思いましたね」と、松坂の人柄が分かるエピソードを教えてくれた。

寺原は現役最後まで150キロを超える球を投げていた。ずっと痛めていた右膝は限界だった。「プロ8年目にケガして、そこから10年やれたので。今も痛いですよ」。それでも、現在、指導している琉球ブルーオーシャンズでは「まだまだ負けない」とキャッチボールで手本を見せることもある。家族を福岡に残し、単身で沖縄に来て2年目。「楽しいですよ。本当にのんびりしているので、すごく暮らしやすいのと、沖縄の人たちって、つながりが結構すごいんで、知り合いもすごく増えましたね」とすっかりなじんでいる。

今はNPB入りを夢見る若者を指導しているが、将来的には高校生を指導してみたいとも思っている。「このオフに学生野球資格回復研修制度を受けようと思っています」と話す。現在、高校生でも150キロ超の投手が続々と出てきている。「トレーニングも進化してきてるんだと思います。知識もある」。その進化の中で、寺原2世を育ててみたい。宮崎県は春夏ともに、まだ全国制覇をしたことがない。01年の日南学園も8強止まりだった。「僕の時も優勝できると思って、宮崎県も送り出してくれたらしいんですけど、結局、優勝できずに帰ってきた。やっぱり宮崎県に優勝旗を持って帰るのは僕の夢ですね」。近い将来、寺原監督として、甲子園を再び沸かしているかもしれない。【石橋隆雄】

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