日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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数年前、マツダスタジアムのネット裏で、“世界の盗塁王”の福本豊が「すみません。一緒に写真撮ってください」と願い出たのは、居合わせたスピードスター、南海ホークス(現ソフトバンク)でプレーした広瀬叔功だった。

通算596盗塁は福本に次ぐ歴代2位だが、8割2分9厘の成功率では、広瀬が上回る。「盗塁を成功させる秘訣(ひけつ)は、帰塁の技術にある」。それが持論の広瀬もまた、最多勝監督の鶴岡一人という名将のもとで育った。

ツーショット写真に納まったレジェンド広瀬は、当時の福本のパフォーマンスを「芸術的な盗塁」と表現する。「フク(福本)はどんな接戦でも1点を取るための盗塁ができる選手だったな。試合の中で走ることで、極限まで技術を高めたのだろう」。

福本のプロ初盗塁は、新人だった1969年(昭44)4月13日の東映(現日本ハム)とのダブルヘッダー第2戦(西宮)。8回に助っ人アグリーの代走で二盗を成功させた。ただ前日12日の同戦は、6-3で迎えた8回、3番長池徳士の代走でアウトになっていた。

西本は盗塁死の福本を「はよ走らんかい!」と叱りつけた。翌日も同じような場面で起用し、再びチャンスをつかませたのは西本流の育成法。ファームで鍛錬を積ませ、足のスペシャリストにとどまらず、走攻守3拍子そろったプロに育った。

71、72年のリーグ優勝は、西本が手塩にかけた68年のドラフト組で、福本、加藤秀司、山田久志の黄金トリオがそろって活躍した成果だった。熱血監督として、阪急を率いて5度のリーグ優勝に輝いた。

その5シーズンに投げまくった通算350勝の米田哲也は「エースは完投するのが当たり前。1イニングなんて投手じゃない。意識改革って、そう簡単にできるものではない。西本さんは下積みが長いから根性を感じた」という。

日本シリーズ男の異名をとった足立光宏も「年を取ってから分かったことだけど、西本さんは若手もベテランも平等に扱った。そして好き嫌いなしに努力しているものを試合で使った」と西本イズムの浸透が常勝チームを築いたと明かす。

ピッチャーが育った阪急にあって、エースの系譜を受け継いだのが、山田だった。「以前はチームが勝とうが負けようが、自分の成績さえ良ければいいという風潮だったらしい。西本さんはレギュラーを張っている選手の考え方を変えないといけないと考えた」。

西本は潜在能力を見抜いた山田に「野手から山田のためにと思ってもらえるピッチャーになれ」と教えてきた。それが至難だったのは、71年の日本シリーズで巨人王貞治に浴びた“魔の1球”が物語っている。真のエースになる代償は大きかった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)