智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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三原イズムの根底には「人を見て法を説け」という悟りがあった。埋もれた逸材の発掘から、それを磨き、チャンスを与えながら、時には威圧し、またある時はたたえ、結果に導く。リーダーにとって、見極める能力は条件の1つといえる。

大洋が初優勝した1960年(昭35)、新人内野手だった近藤昭仁の起用が的中したことに、采配の妙が表れた。二塁手は芝野忠男だったが、二遊間の守りに甘さを感じた三原は若さがもつエネルギーにかけた。

また、セ・リーグがダンゴ状態だった6月、三原は千葉茂監督の近鉄とトレードを成立させる。当時のトレード期間は4月末日だったが、野球協約にある「コミッショナーの許可があれば、その限りにあらず」の条項を突いた、今でいう緊急補強だ。

獲得したのはショートの鈴木武だった。遊撃には麻生実男がいたが、三原は近鉄のファームにくすぶっている鈴木に目をつけた。ムラのあるプレーで使いづらいタイプに見えたが、三原は「ひらめき」といって、職人肌の鈴木を遊撃のレギュラーに据えるのだった。

三原が西鉄監督の最終年だった59年6月3日の近鉄戦(平和台)。二塁を守った中西太が一塁走者に強烈なスパイクをされて6針縫うケガを負った。その走者が鈴木だった。中西は「あの鈴木を取るのか…」と驚いたという。

これで懸案の二遊間は固まった。近藤は打率2割2分6厘と低かったが、トップバッターながら40打点をあげた。鈴木を2番に固定し、麻生を代打専門、同じ内野手の浜中祥和を代走に回すなど、適材適所に人材を配置して戦う形を整えていった。

スターがそろった野武士軍団の西鉄とは違って、大洋では実績の乏しい選手を見いだし、レギュラーに仕立てた。代打、代走への配置転換にも「簡単に務まらないが、それをはねのける心技が必要だ」と叱咤(しった)激励するフォローで振り向かせた。

帯に短し、たすきに長しの選手が目立ったが、三原は“ここ”という場面で勝負強さを発揮する鈴木らを「超二流」と表現した。脇役でも一流の働きをしたスペシャリスト。これもまた長所を見抜き、力を引き出した三原魔術の真骨頂だった。

日本シリーズは南海、西鉄などを抑えてパ・リーグを制した西本幸雄の大毎オリオンズ(現ロッテ)との戦いだった。山内一弘、田宮謙次郎、榎本喜八、葛城隆雄らミサイル打線は強力だったが封じ込んだ。

第1戦の先発はエース秋山登でも、島田源太郎でもない、その年5勝の鈴木隆だった。そして、わずか3人に投げ、1死一、二塁の場面で、秋山にスイッチする奇策をみせる。大毎もスクイズ、三盗など果敢に攻めたが、かわされた。

前年最下位の大洋が大毎にストレート勝ちで日本一。ペンをとった三原は「攻めと守りは表裏一体。その微妙なバランスをとることが戦術の1つ」と勝負のアヤをメモにしたためるのだった。【寺尾博和編集委員】(つづく、敬称略)

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