日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

高校野球の名門で知られる浪商学園(大阪)が、創立100周年のメモリアルを迎えた。1921年(大10)の創立以来、甲子園出場は計32回(春18、夏14)。02年のセンバツ出場後は、もう20年間も甲子園から遠ざかっている。

11月6日に大阪市中央区のホテルニューオータニ大阪の「創立100周年記念式典・祝賀会」はコロナ禍で1年遅れの開催になった。あいさつに立った第6代理事長の野田賢治は、浪商が野球に力を注いだ経緯を披露した。

「創立者の1人だった徳永四郎さんに、長崎高等商業(現長崎大学)の同級生で、後に理事長に就く野田三郎さんが『野球部を創れ』と説きました。スポーツを通してチームワークの必要性を学ぶことは、人間形成に働きかけることができます」

創立から2年後に野球部が発足すると、15年に夏の全国中等学校優勝野球大会に初出場する。大阪を制していた市岡、明星らに浪商が加わったのだ。

また戦後初の大会になった46年、平古場昭二-広瀬吉治のバッテリーを擁して全国優勝を成し遂げた。全国大会の常連となって、浪商の名が知れ渡った契機になった。

さらに61年に脚光を浴びたのは16歳のエース尾崎行雄だ。今でもスピードガンがあれば最速かもしれなかった右腕は、夏春夏の甲子園を経験すると、17歳2カ月で電撃東映入りした。

この日、会場にいたOBのある1人が「新入学生が450人だったが、そのうち入部する部員が300人だった」と周囲を驚かせたが、当時の浪商人気を知るものが疑うことはないようだ。

甲子園に3度出場し、79年センバツ準優勝したのは牛島和彦-香川伸行の黄金バッテリー。強烈なインパクトだったドカベン香川のパフォーマンスがなつかしい。

浪商は34年に原因不明の火災によって校舎が全焼した。また45年には大阪大空襲で戦火に見舞われ学びやを失っている。経営的危機もあったが、その逆境を乗り越えたのは浪商野球の存在だった。

浪商の歴史は、野球と引き離すわけにはいかないだろう。理事長の野田は「学校が厳しいときは必ず野球が明るい話題で救ってくれました」と古豪復活に期待を込める。(敬称略)