日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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その遺影は白い胡蝶蘭に囲まれて、とても幸せそうだった。5月11日に心不全のため帰らぬ人となった中西太が、写真の向こうで右手を大きく広げながら、なにやら熱っぽく語りかけている。

名将三原脩の長女で、中西夫人の敏子から「お花がきれいなうちに…」と伝言を受けて弔問した。戒名は『球宝院釈太優』--。在りし日の姿をしのび、両手を合わせ、生前の教えを振り返った。

今にも、あの豪快さで「ガハハハッ!」と笑って出てきそうで泣けた。いかに偉大だったかは、約1カ月がたっても、だれかれなく寄稿文が掲載され、教え子たちのコメントに触れることからもうかがえる。

監督三原が率いた西鉄ライオンズの黄金期を支えた。本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回。西鉄、日本ハム、阪神で監督を歴任し、8球団を渡り歩いた名指導者だった。

中西の「お別れ会」が11月3日、故郷の香川県高松市で行われることが決まった。当日は母校・高松一、高松、高松商3校の古豪野球部OB連合「讃紫会(さんしかい)」の定期戦(レクザムスタジアム)が追悼試合として開催される。

「おれは野球バカといわれて本望だよ。野球は幸せをつかませてくれたんだからな。今はいろんなことが恵まれすぎとる。それも時代だから仕方がない。でも昔は野球が、唯一の遊びだったんだ」

最後までふるさとの高松を大切にしたのは、自身の野球人生の“原点”を重ね合わせていたからだろう。松島小学6年になった時に終戦を迎えるまで戦火をくぐり抜けた。

高松空襲では防空壕(ごう)に逃げ込んだ。そこを出て大人たちに招かれるように歩いた途中の畑に1人で座っていると、先ほどまで避難していた防空壕(ごう)は爆撃された。

命からがら生き延びた中西少年の希望の灯が野球だったのだ。軟式ボールで興じた三角ベースボール、初めて硬式球を手にして「これが本球か」と目を輝かせた。

「あのまま防空壕にいたら命はなかったから、運が良かったとしか言いようがないよ。おれは何もない貧しい土壌で、良き友、素晴らしい指導者に恵まれたんだ」

夕暮れの高松港。初の甲子園出場で、ナインが乗り込んだ神戸港行きの旅客船に七色のテープが乱れ飛ぶ当時の写真が残されている。人混みにまぎれて手を振る母・小浪を見つけると、なぜか涙がこぼれた。

甲子園を熱狂させ、高校野球熱を盛り上げた球児は“怪童”の異名をとった。プロ野球界を代表するスラッガーで、指導者としても選手の才能を見抜いて育てた名伯楽だった。

戦中戦後を乗り越え、高松で過ごした青春時代を「わたしにとっての財産」と語った。「高松に中西あり」と評された地元の英雄は、日本の球史に輝く星になった。 (敬称略)