<西武3-4楽天>◇26日◇西武ドーム

 闘将が舞った。楽天星野仙一監督(66)が、就任3年目でリーグ優勝を果たした。1年目の11年3月に東日本大震災が起きた。困難にも覚悟を決め、チームをまとめ、ついに球団初の優勝へと導いた。常に、前へ、前へと突っ走った3年間だった。優勝決定後、西武ドームのグラウンドで、厳しくも、かわいがってきた選手たちの手で7度、胴上げされた。

 マウンドにできた歓喜の輪へ、星野監督は一塁側ベンチからゆっくり向かった。ともに戦った選手、コーチ、スタッフと抱き合い、喜び合った。「本当かな。ほっぺをつねってみるか」。もみくちゃにされ、輪の中心へ進む。スタンドから響く「万歳!!」の大合唱に合わせ、7度、宙を舞った。

 星野監督

 3年前の震災から考えると、東北の皆さんの苦労を少しでも和らげたかった。(選手が)楽天の歴史の1ページを記してくれた。これで全てをお返ししたわけじゃないが、少しずつ東北の皆さんと光り輝き、歩んでいきたい。

 選手、フロント、そしてファンともぶつかり、つかんだ栄冠だった。優勝が近づいた9月中旬、ポツリと本音をつぶやいた。「仙台の人が俺のこと好きじゃないなんて分かっていた。それでいい。選手に嫌われようと、コーチに何と思われようと、最後に俺が胴上げされればいい」。

 選手との溝は、東日本大震災で生まれた。就任1年目、オープン戦で遠征先にいた。多くの選手は「野球どころではない」と仙台へ戻ることを望んだが、星野監督は受け入れなかった。「混乱の中、戻っても何もできない。プロとして練習を続けるべきだ」。だが理解されなかった。実績あるベテラン監督と経験の浅い選手たち。遠い距離が、ますます遠くなった。選手から「あの人を男にしたいと思わない」という声まで出た。

 ファンとの距離も広がった。就任後に人気ある渡辺がDeNAに金銭トレードされた。フロント主導だったが「監督が放出した」と誤解された。5位に終わった1年目の本拠地最終戦のセレモニー。星野監督は「(今季は)ぬるかった」と総括した。スタンドの拍手はまばら。これまでは厳しい姿勢や言葉で、チームやファンの心をまとめてきた。だが、星野流が、楽天では、仙台では受け入れられなかった。

 そんな状況でも、勝利への執念は薄れなかった。むしろ強くなる一方だった。理由には、やはり被災した東北への思いがあった。

 「あのとき、オレは『困難、苦難は、乗り越えることができる人間にしか降りかかってこない』と言った。でも、強がりだった。正直、焦っていた。大変な目に遭った人は、たくさんいる。3・11が頭にこびりついていた。物は戻っても、心が前向きにならないと復興じゃない。特に、子どもたち。強い者に憧れる。東京五輪じゃないが、楽天の初優勝という歴史を感じさせたかった」

 選手との関係も、腹をくくって臨んだ。「修復しようとは思わなかった。ダメなら若いヤツを使うまで」。監督室では疲れて、試合直前まで眠ってしまうこともあった。だが部屋を出れば、選手を怒鳴り、時に褒め、冗談を飛ばした。「『闘将』と書かれるだろ。落ち込んだ顔を見せられない。演じなきゃいけない。つらいぞ。俺も、もう四捨五入したら70歳だ」。強い星野仙一であり続けた。

 「なじられようと、けなされようと、立ち向かう。それが俺の人生。投げ飛ばされて、砂をかんでも、前に向かう。子どもの頃から、ずっとそうだ」

 阪神シニアディレクター時代の8年前。05年のシーズン半ば過ぎ、都内の滞在先にある人物が訪ねてきた。巨人の渡辺恒雄会長だった。次期監督の就任を要請された。「あのナベツネさんが俺に頭を下げた。勝ったと思った。ドラフトで取ると言って、俺を取らなかった巨人が、だ。初めて外様を監督にすると」。だが、喜びは一瞬だった。「待てよ。俺はアンチジャイアンツの“旗頭”として、ここまでやってきたんじゃないのか」。誰にも相談せず、丁重に断った。

 強い者に、困難に立ち向かう。それを誇りに歩んできた。まだ道半ば。クライマックスシリーズ、そして巨人と対戦する可能性もある日本シリーズ。「今、そんなこと聞くなよ。終わったばかり。ホッとしてるんだ」。おどけながら答えたが、もちろんリーグ優勝で満足はしていない。必ず日本一となり、仙台の夜空に舞ってみせる。【古川真弥】

 ▼星野監督は中日時代の88、99年、阪神時代の03年に次いで4度目の優勝。03年は阪神を18年ぶりVへ導き、今年は楽天を初優勝させた。セ、パ両リーグで優勝監督は6人目となり、3球団でVは三原監督、西本監督に次いで3人目。66歳の優勝監督は00年長嶋監督(巨人)の64歳を抜く最年長記録。優勝4度以上の監督は17人目だが、現役時代プロで投手だった監督としては藤田監督(巨人)に並び最多回数となった。