Jリーグ30周年。僕は小学校の卒業アルバムに将来の夢は「サッカー選手」と書いた。1990年。その時にJリーグなど存在していなかったし、プロのリーグができるなんて考えたこともなかった。しかし、僕の夢は「サッカー選手」だった。
当時、家のテレビではほぼ毎日野球を見ていた。父親が野球好きで無類の巨人ファンだった。野球が延長に入れば、見たいドラマが見られなくなるとよく母親が愚痴をこぼしていた。それくらいプロ野球の存在は良くも悪くもわが家では影響力があった。
そんな「プロの世界」を見ていたから自然とサッカー選手という夢も同じようなイメージをしていたのかも知れない。そこから3年後の1993年。Jリーグは開幕する。僕が小学生の時に抱いた夢は、舞台として整った。
そこからその夢をかなえるべくブラジルに行って武者修行を積み、あの卒業アルバムに書いた夢の後を追った。しかし、その夢は自分のもろさと共に消えていくことになる。
清水エスパルスのテストを受けるところまで上り詰めた僕は意気揚々とテストに挑む。当時の相手は高校生。確か青森の名門、青森山田高校だったはず。僕は当時22歳。ブラジルでの経験も生かし、無双するつもりで挑んだテストは、高校生に吹っ飛ばされ、ミスを連発して、どんどん自信をなくしてしまう。
30分3本の出場機会を与えられていたはずなのに、あまりのふがいなさに、一本目の終了と同時にテストの終了も告げられた。そこから僕は自分にうそをつき続ける人生が始まっていく。
Jリーガーになることを諦めたのが24歳。テストを受けてから2年後である。ふがいないテスト結果で自分自身に腹が立っていたが、周りには自分はいいプレーをしたとうそをつき、チーム戦術に合わないとか、けがの後遺症がとか…とにかく言い訳をしてばかり。そんなやつがプロになんかなれるわけもなく、ダラダラと2年もの間、夢を追い続けていた。
そんなある日、大宮アルディージャが通訳を探していると友人から話を聞き、僕は面接することになった。東京駅のカフェにいたのは当時の大宮アルディージャ強化部長で現ヴァンフォーレ甲府の社長、佐久間悟氏だった。僕はサッカー選手としてはプロになれないとどこかで思っていたし、そもそも自分から自分の弱さに背を向けた時点でプロになど到底なれるはずがない。憧れのJリーグの舞台。通訳でもいいから入団したいと思い、僕の全てを佐久間さんにぶつけた覚えがある。
2003年、初めてJリーグクラブの一員となることができた。その翌年の2004年には大宮アルディージャが初めてJ1に昇格した。昔、テレビでよく見ていたジャイアンツの優勝祝勝会でのビールかけのシーン。通訳という立場ながら、Jリーグのクラブでビールかけができたことは今でも忘れられない思い出だ。
Jリーガーを目指すことをやめて、通訳としてJクラブに関わり、J1昇格を経験することができた。これも全てはJリーグという舞台があったからこそである。この舞台がなければ、僕はブラジルに行くことも、通訳として関わることもできなかった。この素晴らしい舞台を作り上げてくれた先人たちには感謝をしてもしきれない。
そして、そこから15年の月日を経て、僕はもう1度Jリーガーを目指し始める。39歳の夏。青春はとっくに終わり、セピア色が少し前を歩いているような年齢。「自分の人生の後悔を取り返しにいく」と決意をして、40歳でJリーガーになることを宣言した。
そしてその夢はかなった。水戸ホーリーホックで40歳のJリーガーが誕生したのだ。これも何かの縁かもしれないが、当時の水戸ホーリーホック強化部長(元GM)は大宮アルディージャ時代の選手。僕は通訳として、彼は選手として共に戦った仲間だった。
そんな彼が3カ月ものテスト期間を経て、僕の加入を決めてくれた。1週間ごとに合否発表があり、それが3カ月も続いた。紅白戦でゴールを決めたときに加入を決めたと言ってくれたが、いろいろな角度で悩みに悩んで決定してくれたことを考えると、感謝してもしきれない。
小学生の時に書いたアルバムの夢から28年の時を経て、少年の夢はおっさんの希望へと変わった。これも全てはJリーグという舞台があり続けているおかげ。僕らは現在から未来だけを見てはいけない。僕らがいる現在は過去と未来の間にある。それは歴史の途中とも言える。脈々と受け継がれてきたこの歴史、その中には多くの涙と苦悩と歓喜があったはずだ。
FC東京で長くプレーし、ブラジル人ながら“キングオブトーキョー”とも呼ばれるアマラオがかつて言っていた。「昔はスタンドいる人の顔を全員把握していた」と。だから彼は今でもサポーター、ファンを大切にするし、今でも彼の顔が描かれた横断幕がスタジアムには飾られている。これは歴史が紡いでくれた功績であり、数々の想いが今を作り未来を照らしてくれている。
僕はサポーターとファンは違うと思っている。サポーターはクラブに貢献できる選手を応援する人たち。ファンは自分の心を動かしてくれる選手を応援する人たち。どっちがいいとか悪いではなく、30年経った今だからこそ、このあたりの定義を明確にして、選手がつぎの10年、20年、50年へとつないでいかなければならない。
今、JリーグはDAZNによって生かされているようで、このままだとそのDAZNによってリーグ自体が危うくなる可能性がある。Jリーグの中にいる人に声を大にして言いたい。保身に走らないでくれ。この先何十年と誰かの希望であり続けるJリーグでいるためには、個人の保身でこのリーグを衰退させてはならない。
そして選手も含めた関係者全員は私利私欲や損得ではなく、自分の信念や理想を追い求め、そしてファンやサポーターがいるからこそ成り立っているという構図を改めて再認識してほしい。語弊を恐れずに言えば、アスリートは社会不適合な人ばかり。だからこそ、人を感動させ、人に勇気や希望を与えられるんだ。一般の人ではできないことをしているということを認識して、自分が求められていることをサッカーを通して表現してほしい。歴史の途中である今を大事に未来へとつないでほしいと思う。
僕は引き続き僕なりの関わり方でサッカー界の未来に歴史を継承していきたいと思う。僕にしかできない無限の可能性をJリーグに! (ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「元年俸120円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)
◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、19歳で地元クラブとプロ契約を結んだが開幕直前のけがもあり、帰国。03年に引退するも17年夏に39歳で再びプロ入りを志し、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年にJ3YS横浜に移籍。同年開幕戦の鳥取戦に41歳1カ月9日で途中出場し、ジーコの持つJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を更新。20年限りで現役を引退し、格闘家転向を表明。21年4月にアマチュア格闘技イベント「EXECUTIVE FIGHT 武士道」で格闘家デビュー。プロとしては22年2月16日にRISEでデビューを果たした。175センチ、74キロ。



