12日に初日を迎える大相撲秋場所(両国国技館)から、日刊スポーツの相撲評論家として第66代横綱若乃花の花田虎上氏(50)がデビューする。日本相撲協会を退職した、前任の先代錦島親方(元大関朝潮)からのバトンタッチだ。

くしくも伯父の初代横綱若乃花の花田勝治さん(故人)も、日刊スポーツの評論家を30年ほど前まで務めていた。そんなこともあり「これも何かの縁と思い引き受けさせていただきます」の快諾してもらった。ただ「土俵の鬼」と恐れられた初代とは、小兵という体形は似ていても、相撲解説となると趣を異にすると思われる。「決して“横綱目線”でなく、評論する力士の地位に応じて、自分がその番付にいた時の目線で解説したいと思います」と花田氏は言う。上から目線は避け、かしこまることなく“お兄ちゃん”らしいソフトタッチの解説になるのでは、と予想している。

紙面で掲載されるコラムのカットには、相撲担当記者内でも頭を悩ませた。個人的には、あの代名詞を入れるのが、一番ふさわしいのでは…と思った。そう、やっぱり「お兄ちゃん」-。あの柔和な笑顔でテレビやSNSでもおなじみだ。弟貴乃花と二人三脚で頂点まで上り詰めた姿に、その後の紆余(うよ)曲折はあっても、往年の相撲ファンには、いつまでも「お兄ちゃん」のイメージが残っているのではないか。だから、たとえば「お兄ちゃんの技あり解説」とか「お兄ちゃんの熱視線」とか。ただ、そんな軽々な発想から抱いていた候補の代名詞は、花田氏本人の「もう『お兄ちゃん』って、そんな年でもないし」と、笑いながらの言葉で、やんわりご破算になった。

今年1月に50歳になった花田氏。そりゃあそうだろうな、いまさら「お兄ちゃん」も気恥ずかしいだろう…と思いつつ、私の中では「お兄ちゃん」のままで記憶が止まっている。あの若貴フィーバーの渦中を取材していた中、当時若ノ花で三役最後の場所となった93年名古屋場所が、私の最後の相撲担当だった。その場所、13勝2敗の優勝同点で大関昇進を決めたため、大関以降の花田氏は見ていない。だから、いつまでも「お兄ちゃん」のままだ。

とはいえ評論家就任にあたり、この約30年をいつまでも空白のままであってはいけない。そう思い、何度か花田氏と電話で話し込み、あの自分も若かった頃には、つゆほども感じられなかった苦悩ぶりなどを聞いた。そんな中でも「そこまで追い詰められていたのか」とショッキングに耳に入ったのが、横綱昇進時のエピソードだった。ちょうど秋場所展望で新横綱照ノ富士の心境を、花田氏自身の経験と照らし合わそうと話を振った時に返ってきた答えだった。

「横綱になったら引退していいよって、師匠も言ってくれていたから」。横綱昇進が正式決定すると、日本相撲協会から伝達の使者が部屋にやってくる。「謹んでお受けいたします」で始まる、あの晴れの、一世一代の口上。まさか、と思い記事検索したところ、花田氏は使者が来る前日、父であり師匠の二子山親方(元大関貴ノ花)に「謹んでお断りします」と言ってもいいか、と問い掛けたという記事があった。昭和の大横綱・大鵬が横綱に上がった瞬間、いつ引退してもいい覚悟を持ったという話は生前に直接、ご本人から聞いたことがある。ただ、花田氏のこの告白は、それ以上の衝撃だった。

横綱に上がる前から体はボロボロで、小柄な体で巨漢力士全盛の時代に戦った代償は、今も変形し続け生涯、治らないという背骨にもあるという。「若い衆のころは、さすがに畳一畳分ぐらいしか自分のスペースがないから出来なかったけど、関取になってからは毎日だった」という本場所で対戦する相手力士のビデオは連日連夜、擦り切れるほどテープを回し研究したともいう。

自分の長所を伸ばしようにも、体の伸びしろは満身創痍(そうい)では限度がある。だから、それを補うべく相手の研究は「徹底的にやった」とビデオの映像を頭にたたきこんだ。「天性の相撲勘」ともよく称されたが、持って生まれたものに、たゆまぬ頭脳戦を重ねたことで、横綱の座をつかんだと思う。テレビでよく見る技術解説に定評があるのも、積み重ねのたまものだろう。評論家就任にあたり、その理由をこう語った。

「自分を育てていただいた相撲の神様に恩返しの気持ちで」

多角的な技術解説はもちろん、行間にそんな思いがにじむような評論を、読者の皆さまにもお届けできたら幸いだ。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)