一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトし、語ります。世界王者を男女で8人育てたワタナベジム渡辺均会長(70)の一撃は、内山高志氏の「サルガド戦の右ストレート」です。ジムに初めて世界王座をもたらした愛弟子の一撃は、今もジム経営の原動力になっています。(取材・構成=河合香)

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▼試合VTR 内山は10年1月11日に14戦目で、WBA世界スーパーフェザー級王者フアン・カルロス・サルガド(メキシコ)に世界初挑戦した。初回からジャブで先手をとり、積極的に攻めてリードした。3回には反撃に鼻血も出すが、前に出続けてポイントも大きくリードした。最終12回も守りに入らずに攻めた。残り1分を切って、ロープに追い詰めて右ストレート。1発目は左側頭部をかすり、2発目をアゴに打ち込むとダウン。カウント8で立ち上がったが、さらに右を2発でロープへ飛ばすと、レフェリーがストップした。12回2分48秒TKOで、ジムにとって6度目の世界挑戦で悲願達成となった。内山はその後に11度防衛し、KOダイナマイトのニックネーム通りに世界戦では12試合中10試合でKOを決めた。

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忘れられないパンチはいくつもあるが、やっぱり内山の右ストレートが一番。何しろジムから初めて世界をとり、ここまで45年もジムを続けられ、今あるのも内山のおかげ。あのパンチがなければ、すべてはなかったとも言えるから。

入門前は全日本王者とはいえライト級だけに、世界はどうかなと思っていた。入門して初めてミットを受けると、ガツンと来た。重みがそれまでとは格が違った。ゲームセンターのパンチングマシンで、700キロを出して壊したのもうなずけた。世界もいけるというより、これは世界王者にしないといけないと思った。

世界が見えてきたころは、WBAはホルヘ・リナレス(帝拳)が王者。日本人とはやらないというので、チャンスは難しいと思っていた。それがサルガドに負けたことでチャンスが来た。

最終12回のインターバルで、内山に「倒してこい」と言った。もしかしたら採点は競っているかもしれない。相手は11回に弱っていた。でも、最終回だけに息を吹き返すかもしれない。3つの考えがあって、KOを狙わせた。

指示通りに内山は連打で攻めまくり、ほとんど右を決めて倒した。内山まで5度の世界挑戦は失敗し、ミスマッチと不評を買ったことも多かった。感激で初めて涙が出てきたのは忘れられない。

今は気はめいるし、これからが心配で仕方ない。世界王者も8人できたし、日本プロボクシング協会長もやらせてもらったし、年もあるし。もうやめてもいいかと思うことさえある。

ジムを開く時の目標はヨネクラジムだった。世界王者の数はあと1人で並べる。内山が世界をとった時には大学を卒業した気分と言ったが、選手のためにまだまだジムは卒業できない。もうひと踏ん張りして、あの内山のような選手を育てたい。

◆渡辺均(わたなべ・ひとし)1950年(昭25)1月5日、栃木県今市市(現日光市)生まれ。現宇都宮ジムでボクシングを始め、その時からジム経営を目標にしていた。宇都宮工卒業後は国鉄に勤務しながら、5度目の挑戦でプロテストに合格し、69年にプロデビュー。通算7勝6敗で最高ランクは日本ミドル級3位。75年に地元で念願の今市ジムを開設し、東京転勤を機に、80年には五反田に移転してワタナベジムに改称した。82年には退職してジム経営に専念し、朝8時から夜10時までの営業などで、98年には会員が800人にまで増えた。内山を皮切りに男子は内山、河野、田口、京口の4人、女子も国内公認第1号の富樫ら4人の世界王者を育てた。

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