プロレスには不思議な力がある。24年間、プロレス界の天国も地獄も見てきた真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。
連載の第3回は、人気低迷の中で試行錯誤していた時期をたどる。
【取材・構成=高場泉穂】
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小泉純一郎首相が劇場型政治を繰り広げ、ヒルズ族が世をにぎわせていた00年代後半、プロレス人気は低迷していた。
00年前半にブームとなった総合格闘技PRIDEやキックボクシングK-1の人気におされて、という面もある。
だが、真壁はプロレスとも総合格闘技ともいえない「中途半端な試合をしていた」自分たちのせいだと語る。
「俺たちは本物のプロレスをしてなかったのよ。それがすべて。なんちゃって総合格闘技なら、総合格闘技みればいいじゃん。プロレスのチケットは高い。8000円とか1万円とか、1日働いた分かかる。その金に見合ったものを客は見たいのよ。喜びとか、悔しさとか、怒りとか。観客が一番シビアなの」
プロレスが人気を誇っていた90年代までとは違い、スポーツに限らず、娯楽の対象は多種多様になった。その中で、身銭をきって見ようと思える面白さがあるか? 真壁の言う通り、ファンの目は厳しかった。
離れていったファンを取り戻すため、それぞれの団体、選手が試行錯誤を続けていた。その中で特別な個性もなく埋没していた真壁は、思いきって悪役=ヒールに転向した。
きっかけは、06年5月に行った長州力プロデュースの「LOCK UP」大会。他団体選手も多く交じるこの興行に参戦した真壁は、インディー団体アパッチプロレス軍の金村キンタローから「真壁は呼んでねぇ」と侮辱された。同時に客にも笑われた。その言葉が真壁の心に突き刺さった。屈辱だった。
97年のデビュー以来、脇役であり続けた真壁の中の何かがはじけた。
「自分の価値を思い知らされた。恥ずかしかった。だから、俺は鬼になった。やることなすこと全部変えてやろうと」
そこから真壁はかつてのレジェンド、ヒールとして一時代を築いたブルーザー・ブロディのスタイルに影響を受けた“暴走キングコング”というスタイルを作り上げた。
入場曲にブロディと同じ「移民の歌」を使い、8キロもある鎖を首に巻いた。デビュー9年目にして、誰が見てもひと目でそれと分かるキャラクターを確立した。
当時の新日本のエースは棚橋と中邑。真壁は正統派の2人と違う何かを求め、インディー団体の試合に参戦し、デスマッチも経験した。
名門新日本の選手がインディーの大会でデスマッチをするというのは、はたから見れば“左遷”に見えたかもしれない。だが、真壁はその中で多くの事を学びとった。
「おれはそれまで死にもの狂いで練習してたから、技術や強さで金村たちに負けるわけないと思っていた。だけど、いざ戦ってみると、彼らの方が試合で何を見せたらいいか、どうしたら自分の面白いところを見せられるか分かってたんだ」
ヒールになった真壁は会社や他の選手、自分自身に対して思っていた怒りを試合でぶちまけた。その熱い戦いがファンを引きつけた。09年夏にG1初優勝を果たし、翌10年には中邑真輔を破り、IWGPヘビー級王座初戴冠。「俺みたいな雑草が天下をとる、世にも奇妙な物語が始まったわけだ」。
プロレスは一筋縄ではいかない。だから面白い。その一方で、自分のスタイルを貫き革新を起こそうとした選手もいた。
新日本プロレスの棚橋弘至だ。07年にIWGPヘビー級を初戴冠。その頃から「愛してま~す」の決めぜりふを使い始めたが、どこか軽くうつる棚橋は、旧来のファンにブーイングを浴び続けた。
それでも棚橋は揺るがない。自らに「100年に一人の逸材」とキャッチコピーをつけ、ファンに向かって「愛してま~す」と言い続けた。
09年の年明けの名物大会「1・4」では、全日本のトップでありレジェンドの武藤敬司に勝利。エースの存在感を示しつつあった。エアギターや試合後のハイタッチで幸福感を演出する棚橋、対して鎖を手に暴れるヒール真壁。新たな個性を持った選手が、ファンの支持を得ていった。
プロレス界は05年に橋本真也、09年に三沢光晴と2人の偉大な選手を失う。40歳という若さでの橋本の病死も、試合中の事故で亡くなった三沢の死も、社会に大きな衝撃を与えた。
ノアを率いていた三沢は生前「プロレスをメジャーに」と願い、新日本、全日本に呼びかけ統一機構の設立に動いていた。結局、実現に至らなかったが、プロレス界は新しく生まれ変わろうとしていた。
経済が傾き、次々と社会問題が起こる時代。人々はプロレスに非日常とハッピーを求めたのかもしれない。
ドロドロした感情が渦巻く過去のプロレスとはまた違う、明るく楽しいプロレス。新日本のエース棚橋が作ってきた価値観に時代が追いついてきた。
11年2月、新日本プロレスの仙台サンプラザホール大会は、3200人の超満員となった。仙台での17年ぶりとなるIWGPヘビー級選手権のため、王者棚橋は大会前に宮城に乗り込み、テレビ、ラジオ各局、雑誌などさまざまなメディアでPRに駆けずり回っていた。
その棚橋の相手は当時全日本を退団し、フリーとなっていた小島聡。前年から新日本のトップ戦線をかき回していた“外敵”だった。新日本対外敵という分かりやすいストーリーと、激しい戦い。防衛した棚橋が作り出すハッピーな空間。会場は熱狂と幸福感にあふれていた。
メインで小島のセコンドにつくタイチを排除した真壁も大声援を受けた。1つ1つの反響の大きさに、選手もファンも新たな風を感じていた。
「まだ、場所によって(観客動員が)きついとこはきつかったけど、だんだんと会場が埋まり始めてきていた。さあこれから始まるぞ、新しい流れが始まるぞ、という時に、東日本大震災が起こったんだ」
それは、ようやく光が見えた矢先のことだった。
その仙台大会から18日後の2011年3月11日に東日本大震災が発生。多数の犠牲者を出し、東日本の太平洋沿岸部に甚大な被害をもたらした。
ただ、そんな中でも、プロレスは止まらぬどころか、その底力を発揮するのだった。(続く)