全盛時代に「プロレス最強」を声高に叫び、長年にわたり世界中の強者と戦ってきたアントニオ猪木さん(享年79)は、40代半ばを迎えたレスラー生活の晩年から、目指す道を「プロレスを通じた世界平和の構築」に見定めた。

きっかけは88年。世界最強と言われたソ連のアマレスの選手をスカウトするため自らモスクワに乗り込んだ。当時、同国はペレストロイカ(改革)を推し進めていたが、プロレスの知識はほとんどなかった。社会主義の厚いベールに包まれたアマ選手を、エンターテインメント色の強いプロレスのリングに上げるのは無謀な試みと言われた。

猪木さんは国家スポーツ委員会の幹部や選手らに自ら技を実践して、熱い思いでプロレスの魅力を語った。演説が終わると会場はスタンディングオベーションに包まれたという。そこで共感と信頼をつかみ、翌89年4月24日のプロレス界初の東京ドーム大会にソ連のアマレス選手たちをデビューさせることに成功した。

08年の本紙の取材に猪木さんは「反対意見も多かった。だけど失敗なんて考えていなかった。歴史を振り返ると、常識がひっくり返っている。アリ戦もそうだったように、不可能はないと」と当時の心境を振り返っている。

プロレスというコンテンツには、国家の思想というとてつもなく高い壁をも超える力があることを実感した猪木さんは、プロレスを通じた世界平和活動に人生のかじを切った。

東京ドーム大会後の89年7月にスポーツ平和党を結党して参院選に初当選すると、その活動に拍車がかかった。同12月にはモスクワで初のプロレス興行を成功させた。そして、米国によるイラク空爆直前の翌90年12月、外務省が難色を示す中、湾岸危機で緊迫していたイラクに自費で乗り込み「平和の祭典」を開催した。プロレスに地元の大観衆も熱狂した。

この時、イラクで人質となっていた日本人の家族46人も同行していた。そして興行の2日後に人質の解放が決まり、猪木さんがチャーターしたトルコ航空機で一緒に帰国した。

この話にはプロレスにまつわるエピソードがある。猪木が到着する直前までムハマド・アリがイラクに滞在していた。猪木のイラク入りを伝え聞いたアリは、当時のフセイン大統領に「猪木はベストフレンドだ」と助言していたという。

95年4月28日には拉致問題をめぐり日本とも緊張関係にある北朝鮮で「平和のための平壌スポーツ文化祝典」を実現させた。立会人をムハマド・アリが務め猪木さん自身もリングに上がり、元NWA王者リック・フレアーと試合を行った。公表された観客は実に38万人。以降も批判を浴びながらも、北朝鮮との交流を続けた。

「世界情勢は子どものころから興味があった。兄のリーダーズダイジェストを読んだりしてね。オレの夢はいつも社会とリンクしていた」(08年の本紙取材から)。肉体の衰えとともにリングからは遠ざかったが、猪木さんは「世界平和」という新たな夢に向かって、闘魂を燃やし続けた。【首藤正徳】