「約束」が果たされることがないまま、鶴竜が引退した。最後の優勝となった19年名古屋場所後、8月の夏巡業で知人から譲り受けた写真を見せた。鶴竜の母校の写真だ。ウランバートルの第31小中高。バスケットボールに夢中だった当時の話や、父が大学教授とあって、小中高生が時間をずらして同じ学校に通うなどの教育環境の不十分さ、環境改善に尽力したい思いなどを熱く語っていた。当時は「優勝10回」を目標に掲げた直後。「この話は次に優勝した時で」。そう約束したが「次」はなかった。

初めて朝稽古を訪れた時に驚かされた。平幕だった11年前、人けのない当時の井筒部屋を訪れると、すでに軽めの稽古を終えた鶴竜は、上がり座敷で新聞を読んでいた。文字がびっしりの一般紙の経済面。多くの外国出身アスリートは、会話はできても特に漢字の読み書きが不得手。だが鶴竜は「漢字の勉強になるし、経済のことを勉強するのも無駄じゃないから」と、笑って話した。興味を持つとのめり込むタイプ。大好きなサッカーやNBAの知識は豊富で、スマホのサッカーゲームも「たぶん1000万円ぐらい課金してますよ」とある力士は明かす。

静かに燃える男だった。対横綱は朝青龍に7戦全敗で、白鵬には初顔合わせから20連敗していた。普段の柔和な笑顔とは対照的に、平幕のころの鶴竜はガムシャラだった。白鵬の顔面を何度も張り、怒った白鵬からぶん投げられた。それでも次はまた顔を張った。そしてまた投げられた。「誰かに対して怒ったことは、生まれてから1度もない」という、生き仏のような性格。挑発や報復ではなく、ただ全力で壁に向かった。

シャイな性格で、本音を打ち明けられるのは親友の玉鷲ぐらいだろう。それでも11年に、東日本大震災の被災地を巡回慰問した際は「自分は横綱(白鵬)のように有名ではないけど、少しでも被災者の方を励ましたい」と、炊き出しのちゃんこを配り歩き、求められれば全員と握手した。気は優しくて力持ち。後輩の指導も的確で、元付け人でやんちゃな現在幕下の阿炎も鶴竜を尊敬してやまない。

「もし、私を受け入れてくれる部屋がありましたら、その方々の気持ちにこたえるべく、一生懸命がんばりたいと思います。立派な力士になるように精一杯(いっぱい)稽古にはげみます」。何のつてもなく日本相撲振興会などに、無謀な手紙を送って力士人生が始まった。当時の井筒親方(元関脇逆鉾=故人)に声を掛けられ、高校を中退して初来日してから20年。「ケガさえ治れば」。稽古場ではまだまだ強さを見せていただけに、無念の思いはあるだろう。それでも常に言い訳をしないのは、尊敬もしている同世代の稀勢の里の影響もある。全力士の中でも屈指のきれいな日本語を使い、達筆となった鶴竜。相撲道は、道半ばで幕を閉じた。【高田文太=10~11、17~19年大相撲担当】