第55代横綱の北の湖親方が62歳で死去してから、11月20日で丸10年となった。2015年当時は九州場所13日目。日本相撲協会の現職理事長の死去は1968年に亡くなった元横綱双葉山の時津風理事長以来だった。
北の湖部屋は、元幕内巌雄の山響部屋に引き継がれた。当時、北の湖部屋に在籍していた16人の力士のうち、今も現役を続けるのは北はり磨、鳰の湖、天一、大和湖、奄美岳の5人。
39歳になった元幕内の北はり磨は今場所も東幕下32枚目で踏ん張っており、関取復帰を目指している。
北の湖親方の教えは忘れない。「『四股踏め、腰を入れて四股踏め』。それしか言われていない気がします。それがずっと頭に残っています」。北はり磨は、北の湖親方の写真を必ず、地方場所に持っていく。大部屋で寝る場所の頭の上に、その写真を置く。「持っていかないと、変な感じになる」という紋付き羽織はかまで正装した先代師匠の写真。いつも見守ってくれている。
北の湖親方が亡くなったのは、2015年11月20日午後6時55分。その日の結びは、横綱白鵬が大関鶴竜に勝った一番だった。まるで打ち出しを待つかのように息を引き取った。
この年は7月に腎臓に尿がたまる「両側水腎症」で手術を受け、体重は20キロ以上やせた。10月に入っても腎臓がすぐれず、都内で入院。秋場所も九州場所も、土俵祭りや協会あいさつを欠席した。場所中は会場に着いても車の中で2時間、横たわる日もあった。それでも大関戦が始まると、報道陣に対応した。亡くなる前日の12日目まで、それは変わらなかった。死因は「直腸がんによる多臓器不全」だった。
体調が急変したのは、13日目の朝。福岡県済生会福岡総合病院に救急車で搬送された。
元幕内の鳰の湖は、最期をみとった1人。「取組がない日だったので、朝から病院に行きました。亡くなった時はわんわん泣きました。それだけ北の湖親方の存在は大きかった。あのころ毎日、部屋に帰ってから血を吐いていました。あの状態で仕事に行くんだと…。何日も、無理やり行っていました、相撲協会が一番だと言っていました。師匠のプロ意識を感じました。トップに立つ人は、ここまで考えているんだと」。
鳰の湖も38歳。九州場所は東三段目30枚目で勝ち越した。心に頭に残る北の湖親方の言葉は「考えてうじうじしてなんとかなるのか。うじうじ止まっていてもなんかなるか」。今も夢を追っている。
呼び出しの太助は、北の湖親方が亡くなったあの日、病院と九州場所の会場・福岡国際センターを往復していた。師匠が倒れ、朝から病院に向かった。呼び出しの兄弟子たちは「今日くらいは休め」と言ってくれた。しかし、師匠がそれを許さなかった。「出番、行けよ。休むな」と言われ、本場所に戻って土俵上で呼び上げた。呼び出しの仕事をこなして、病院に戻った。「『仕事は休むな』という厳しい人でした。協会の仕事なんで、迷惑かからないように、休まないように、体調良くして頑張らないとダメだとよく言われました」。命を削って職務を全うした北の湖親方には、身をもって仕事の大切さを教え込まれた。
当時、北の湖部屋の部屋付きだった親方衆は、今も当時の教えを守っている。
部屋を継承した山響親方は言う。「北の湖親方は、若い人と食事をするのが本当に好きだった。その気持ちが分かってきました。相撲の話とか、北の湖親方の話とか、そういう話に(力士たちが)食いついてくる。北はり磨や鳰の湖がああだった、こうだったと話しています」。部屋付きの小野川親方(元幕内北太樹)は「いろいろ教えてもらったことを、若い力士に伝えていくのも役目。何事も基本が大事、四股、すり足、テッポウ。基礎を怠ったらダメだと、よく若い力士に伝えています」と故人をしのんだ。
式秀親方(元幕内北桜)は、2013年に北の湖部屋から独立して、式秀部屋を継承した。「教える立場になると、師匠の厳しい言葉は指導だったんだなと、身に染みて分かります。亡くなって師匠の偉大さが分かります」と話し、こんなエピソードを披露してくれた。
関取に上がる前のころ、トイレ掃除を終えると北の湖親方が入ってきた。自分なりにきちんと掃除をしたつもりが、窓枠付近のほこりが残っていることを指摘された。
ちゃんこ番の片付けの時は、流しの網に残った1本の糸こんにゃくが残っていることを指して「これ1本が取れていないんだから、終わってない」と言われた。稽古を見る時も、見る角度を変えてよく見ろと言われた。
「横綱でも序ノ口力士のいいところを見つけたら、それをまねするんだと言っていました」
北の湖親方は現役時代の取組をすべて覚えていた。18年間分、どの場所の何日目に誰と対戦して、どんな相撲だったのか、すべてを記憶していた。
式秀親方は、かいなの返し方についても、北の湖親方の教えを実践してくれた。相撲教習所では、かいなを返す時、手の甲を相手の背中につけるように教えられる。北の湖親方は、握った手の親指と人さし指の側面を相手の背中につければ十分だと説いた。人間の骨格を勉強し、理にかなっていると感じた式秀親方は、北の湖親方に「なんで分かったんですか?」と聞いたことがある。すると、こんな言葉が返ってきた。
「いいか英俊、人間は地球上でできることできないことは決まってるんだよ」
「この言葉にはしびれました。『オレは横綱になっても勉強した』っていってました」。式秀親方の話は、止まらなかった。
木瀬親方(元幕内肥後ノ海)は、北の湖親方を「一番尊敬する人」と言う。木瀬部屋に不祥事があり、一時は北の湖部屋預かりとなった。約2年間、北の湖部屋で学んだ。心に残ることは「ありすぎて…」。「細かい気配りがすごかった、普段から。面倒見がいいんですよ」。
今や、木瀬親方の弟子への気配りはきめ細かくて有名だ。稽古場では1人1人のコンディションを把握し、稽古の強弱を指示する。弟子の誕生日には必ず、個別に連絡して祝福する。
木瀬部屋の稽古場には、北の湖親方の写真が飾ってある。
毎年末、山響親方ら北の湖部屋のOBたちは、川崎大師に出向いて手を合わせる。同地には、檀家(だんか)だった北の湖親方の銅像が建ち、墓がある。毎年欠かさず、墓参りの後は旧北の湖部屋で線香をあげる。
あれから10年-。かかわった人たちの心の中に、今も北の湖親方は残り続けている。【佐々木一郎】

