帝京高の教員になった時、サッカーの古沼貞雄先生に目をかけていただいた。きっかけは、プロレスラーのレフェリーをしていた明大OBのタイガー服部氏との縁だった。古沼先生の実家が経営する幼稚園の先生に、服部レフェリーの妹さんがいたからである。

私と服部氏はソ連遠征レスリング日本代表のチームメート、なぜか仲良しであった。古沼先生と服部氏は高校の同窓生でもあり、親近感を覚える。サッカーの「サ」も知らない私は、古沼先生から直接、強化指導法を学んだ。中学生のスカウトにも同行して、古沼先生の熱心さと執念を目の当たりにした。

当時、正月の高校サッカー選手権は、東京と大阪で隔年で行われていて、私は大阪の大会にも同行した。勝ち進むと日数があくので練習試合、選手たちに常に緊張感を与えていたのが印象的であった。初芝(現初芝立命館高)との練習試合は、寒いのに雨中の悪コンディションの中で行われたことを忘れない。

それから数年後の1993年5月15日、私は旧国立競技場にいた。サッカーのJリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)と横浜マリノスの記念すべき試合に、NHKテレビ中継のゲストとして招かれたのである。早いもので、あれから約30年、Jリーグも歴史を重ね、W杯の出場常連国となった。果たしてサッカーのプロ化が成功するのか、杞憂(きゆう)に終わったのはサッカー界の人たちの努力のたまものだ。

「サッカーくじ法案」を通す際、サッカー関係者は死に物狂いで、古沼先生を通じて代議士だった私にも協力要請があった。今やくじの売り上げで他のスポーツ界も助かっている。ヨーロッパのトトカルチョ(サッカーくじ)をまねて大成功であったが、当時の功労者はすでに鬼籍に入られた。Jリーグ開幕戦は、6万大観衆を集めて行われた。Jリーグブームの始まりに立ち会った1人として、30年前を懐かしく思う。10チームからスタートしたJリーグ、今年で58のチームが参加だという。(おわり)