山口百恵さんの名曲「秋桜」のジャケット写真
山口百恵さんの名曲「秋桜」のジャケット写真

今年10月、山口百恵さんの引退からちょうど40年を迎えます。77年に発表した「秋桜」は、嫁ぐ娘が母を思う心境を歌ったバラードの名曲。ツッパリ路線で人気を獲得していた百恵さんにとって、大きな転機となった曲です。作詞作曲したさだまさしは、曲の提供から2年後、百恵さんから受け取ったメッセージから、ある思いを感じ取りました。名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第10回は「秋桜」の登場です。

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1980年(昭55)10月5日、大阪市内のホールでコンサートを終えたさだまさし(当時28)が定宿のホテルに戻ると、フロントマンからメッセージを渡された。部屋に向かう途中、何げなく目を通していたが、思わず足を止めた。こう記されていた。「さださんがこの歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。本当に、本当にありがとうございました。山口百恵」。

その日夜、当時21歳だった山口百恵さんは東京・日本武道館でコンサートを行っていた。三浦友和との結婚を45日後に控え、8年間の芸能生活を締めくくる最後のステージだった。さだが受け取ったメッセージは、今でも百恵さんの引退にまつわる話として、今も語り継がれるマイクをステージ上に置いてファンに別れを告げたパフォーマンスの直後に、電話で残したものだった。引退したその日、嫁ぐ娘と、娘の幸せを祈りながら送り出す母親の心情を歌う「秋桜(コスモス)」に託された意味が初めて理解できたと、作者であるさだに急ぎ伝えたのだ。

「雨やどり」のヒットで人気上昇中だったさだが、百恵さんの関係者から作詞作曲の依頼を受けたのは、百恵さんが18歳で「横須賀ストーリー」「イミテイション・ゴールド」など突っ張ったイメージの曲で人気絶頂のころだった。

しかし当時、さだは「俺には突っ張っているようには見えない。日本女性の奥深さを感じる」と百恵さんを評した。さらに「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」と感じていたという。

そうしてイメージしたのが「娘の嫁ぐ日」だった。まだ友和との恋愛がうわさにさえなっていない頃で、誰も3年後に結婚、引退の道を歩むとは思っていなかった。ポップス隆盛の兆しが見えてきた歌謡界への反発もあり、さだは日本的な縁側から庭を眺めた風景を、大正時代に流行した五五調の詞に託した。メキシコ原産のコスモスを、歳時記にある「秋桜」と表記したのも、百恵さんに感じた「理想の日本女性像」にこだわったからだった。

「秋桜」が百恵さんのもとに届けられた直後、さだは電話で話した。「百恵ちゃんにはピンとこない曲でしょ」と言うと、「はい。実感が湧かないんです。だから上手に歌えないんです。すいません」。素直な返事だったと感じた。そこで「好きなように変えて歌ってくれていいんだよ」と伝えた後、「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」と付け加えた。

その返事が、3年後に返ってきた。メッセージには「本当に、本当に…」と「本当に」が繰り返されていた。これを読んださだは「もう2度と彼女が(芸能界に)帰ってくることはないな」と感じたという。【特別取材班】


※この記事は97年12月16日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信します。

山口百恵さん(1987年撮影)
山口百恵さん(1987年撮影)