劇団四季の元代表で、「キャッツ」「ライオンキング」のミュージカルを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。85歳だった。

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 浅利慶太さんは劇団四季の専用劇場を大阪、名古屋、福岡、札幌に建設するなど、日本にミュージカルを定着させた。その力の源は、中曽根康弘元首相のブレーンになるなど、政財界での幅広い人脈にあり、そんな幅広い人脈をもつ異色の演劇人の訃報に、各界から悼むコメントが寄せられた。

 人脈の広さの原点は61年、開場を控えた日生劇場の役員に就任したことだった。28歳だった浅利さんは「ウエスト・サイド物語」の来日公演を企画したが、当時は外貨事情が悪く、政府の許可なくては外貨を使えなかった。そのため、浅利さんは大蔵大臣に直談判。じっくり話を聞いた大臣は「わがままはこれ限りにして」と言いながらも、関係部署に電話。「こういう質の高い作品を招くのは、意義のあること。希望に沿うようにしてあげてください」と指示した。故田中角栄元首相との出会いだった。

 58年に親友の石原慎太郎氏と安保反対の「若い日本の会」で活動。75年に石原氏が都知事選に出馬した時は選挙参謀を務め、さらに佐藤栄作元首相や中曽根元首相のブレーンになるなど、政財界に人脈を広げた。72年の佐藤元首相の退陣会見で「新聞記者は出て行け」と発言した時も、浅利さんが「1度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか」と進言したことが発端だった。83年にレーガン米大統領が来日した際、中曽根元首相との日の出山荘会談を演出した。

 「キャッツ」を上演した時も、浅利さんの人脈で西新宿にあった都有地を借りることに成功し、専用劇場の「キャッツ・シアター」を建設。フジテレビなどをスポンサーに、1年のロングランを果たした。JRとも緊密な関係があり、JRが所有する空き地にキャッツ・シアターを建設し、各地で公演を成功させた。

 また、四季で浅利さんが鍛えた市村正親、鹿賀丈史、山口祐一郎、石丸幹二、保坂知寿、浜田めぐみらが退団後にも主演を担うなど、四季OBなくしてはミュージカル上演が出来ない状況も作った。

 浅利さんは菊池寛賞など民間の賞は受けたが国からの顕彰は一切拒否した。過去に紫綬褒章や文化功労者の内示があった時も辞退。時に権力に寄り添っても、在野の矜恃(きょうじ)は失わない人だった。【林尚之】