「北酒場」「石狩挽歌(ばんか)」などの作詞家で、直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい)さん(本名中西礼三=なかにし・れいぞう)が23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。82歳だった。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れ会を開く予定。喪主は妻中西由利子(なかにし・ゆりこ)さん。約4000曲を作詞し、昭和の歌謡界大全盛を支えた。オペラやミュージカルも手掛けた。創作の原動力は戦争体験だった。平和と自由を常に意識した希代の表現者だった。

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関係者によると、なかにしさんは約1カ月前に心筋梗塞で都内の病院に入院した。若いころから心臓疾患があり、16年に心臓ペースメーカーを埋め込む手術を受けていた。長男の中西康夫さんは訃報をマスコミに知らせる文書に「やりたい事や伝えたい事がまだまだあったと思うので残念でなりません。父は最期まで格好良く色気があっていい男でした。激動の昭和から現代までを生き抜いた人です」と心境をつづった。

作詞家として昭和の歌謡界を支えた。大学は仏文科で、在学中からシャンソンの訳詞をして生計を立てた。静岡・下田に旅行した際、映画のロケで同宿していた石原裕次郎さんから偶然声を掛けられた。「シャンソンじゃ食えない。俺の歌を書くくらいの作詞家になれ」と激励された。作詞家へのきっかけで、裕次郎さんの最後の作品「我が人生に悔いなし」も作詞した。

6歳の時に終戦を迎えた。生まれた旧満州(現中国東北部)から命懸けで引き揚げた。この経験が表現者としての原点となった。代表曲「恋のハレルヤ」(黛ジュン)は戦争体験が歌詞に隠された。名曲「石狩挽歌」は、特攻隊から復員した14歳上の実兄が、ニシン漁に投機して借金を背負う経験から生まれた。「恋だの愛だのキスだの、そんなバカなことを書くことが、平和。だから僕はバカなことを書きまくった。それが平和の象徴、自由の象徴なんです」と話した。

昭和最後の89年に「風の盆恋歌」(石川さゆり)を手掛けた後、一時期、作詞から離れた。「僕は昭和という時代への慈しみ、悲しさ、恨みを書きつづっていた。昭和とともに私の中の歌も終わった」と話した。

そのエネルギーを小説やオペラ、ミュージカルに向けた。00年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞。そして、引き揚げの体験を題材とした小説「赤い月」を書き上げた。「私が数々の歌をつくってきたのも、そしてまた小説家になったのも、すべて『赤い月』を書き上げるためだった」と話した。平和と自由のための旺盛な創作意欲を抱えたまま、希代の表現者が逝った。

◆なかにし礼(れい)本名・中西礼三。1938年(昭13)9月2日、旧満州(現中国・黒竜江省牡丹江市)生まれ。立大文学部仏文科卒。作詞家として「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で日本レコード大賞を3度受賞。作家としても00年「長崎ぶらぶら節」で直木賞。NHK連続テレビ小説「てるてる家族」の原作「てるてる坊主の照子さん」、満州からの引き揚げ体験を描いた「赤い月」などがある。