来月5日に1998年(平10)4月6日からパーソナリティーを務める、TBS系ラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が6000回目の放送を迎える、フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)。宮城県気仙沼市に3男1女の長男として生まれ、米国留学、TBSを経て70歳を迎えて、毎朝マイクに向かう“アンチエイジングの巨匠”。その軌跡を「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して聞いてみた。

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僕が生まれたのは、宮城県の気仙沼。おやじは勤め人で、おふくろと、その母親の祖母が「伊勢浜食堂」という食堂をやっていました。

僕は長男で、3歳下の妹、5歳下の弟、17歳下の弟がいました。5歳下の隆は、僕が1989年(平元)にTBSから独立してフリーになってから、ずっと一緒に「生島企画室」をやってきました。17歳下の弟はスポーツライターでの生島淳。おやじが早くなくなったので、僕が半分父親みたいなもんです。

男3兄弟は結局、みんな東京に出てきました。故郷にいて、ずっと母親の面倒を見てくれたのが、妹の喜代美です。母親とおばあちゃんのそばにいて、大学に行かずに地元に勤め、親が探してきた旦那さまと結婚した。

親の決めたことに対して、何の文句も言わずに「はいっ」て受け入れてね。我慢強い人でした。僕たち男兄弟が、東京で好きな仕事をやってこられたのも、妹のおかげです。

60年の「チリ大地震」では、気仙沼にも大きな津波が来ました。おやじが隆を抱いて、僕には「博、喜代美を頼むぞ!」ってね。小さかった妹の手を引いて高台に避難したのを覚えてます。まだ9歳だったけど、自分は長男だから、何かあったらおやじに代わって、みんなを守って行かなくちゃいけないんだと強く思いました。

その妹の喜代美も、10年前の東日本大震災で亡くなってしまいました。57歳でした。前の月におふくろが85歳で亡くなって、震災当日の3月11日に、翌々日の四十九日法要のために上京する予定でした。僕自身も講演会の仕事で仙台にいて、大きな揺れを経験したんですが、妹は午後の在来線に乗って、仙台経由で新幹線に乗って東京に来る予定でした。それが大きな地震が来て、うちの妻のところに電話があって無事を伝えてくれたんです。だけど、その電話の後に津波の被害にあってしまいました。

おふくろを最後までみとってくれた妹夫婦にはハワイ旅行をプレゼントすると約束していました。妹は「そんなのより、近場の温泉でいいから」って言ってたけど、旦那さんは楽しみにしてくれていました。それが、大震災で妹は亡くなり、旦那さんはいまだに遺体が見つかっていません。東京のお墓に入れる予定だった、おふくろの遺骨もなくなったままです。午前中の電車で上京していればと、今でも悔やまれてなりませせん。

妹の遺体は、その年の9月に見つかりました。遺体が見つからなくても、旦那さんの塩釜の実家で葬儀を行おうという当日でした。宮城県警から連絡があって、DNA鑑定で妹と確認できたと。悲しいことでしたが「この世の中に神様っているんだな」と思えました。

いろいろな遺体の確認に親族で行きましたが、姪っ子、妹の娘が何げなく見ていた中で「これはお母さん」と気がついた遺体でした。今は、あの世でおふくろと妹が再会して、仲良くしていてくれればと願うだけです。僕もいつか再会しますが、それまでは力いっぱい頑張って生きようと。それが、亡くなった人への供養だと思って1日、1日、全力で頑張っています(続く)。

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。