コンテンポラリーダンサーで俳優の生島翔(35)に、インタビューする機会があった。そこで、かねがね知りたかった「コンテンポラリーダンスとは何ぞや?」ということについて聞いてみた。

子供のころはサッカー少年。小学校、中学校はサッカー部が強かった私立の暁星に通って、ボールを蹴っていた。

「サッカー選手に憧れていて、カズさん(横浜FC)がブラジルに行っていたから、ブラジルに留学したいって。父親(フリーアナウンサー生島ヒロシ)が『ふざけるんじゃない』ってね(笑い)。そんなに簡単にいくもんじゃないですからね。でも、子供のころから海外に興味がありましたね」と振り返る。

海外への興味は芸術方面へと変わり、高校は米国へ留学した。カリフォルニアの山奥の高校に通い、大学はウッディー・アレン、マーティン・スコセッシ、オリバー・ストーン、スパイク・リーなどの映画監督やアレック・ボールドウィン、メグ・ライアン、アン・ハサウェイなどの俳優を輩出した名門ニューヨーク大へ。

「最初は俳優になりたかったんですけど、高校入学の時点では英語がしゃべれなかった。さすがに演劇科にはさせられない、と。舞台に立つのに慣れる、将来的にミュージカルやるのにダンスをやっておいたらいいんじゃないとダンス科に入学しました。そこでダンスの公演を見たら感激して、これをやりたいと思いました。それで、大学までダンス科。サッカー小僧がコンテンポラリーダンサーになっていました」

さまざまなダンスを引き継ぐコンテンポラリーダンスだが、1970年代後半にフランスのバレエ団によってステージで演じられるようになってきた。ストーリーや華美な衣装、メークにこだわらす、肉体の動きによって表現される。

日本では08年に中学の学習指導要領でダンスが必修となったことから、若い人を中心に広がっている。女優の土屋太鳳(26)が16年の「NHK紅白歌合戦」で郷ひろみ(65)のバックで踊って話題を呼んだ。

生島は「子供のころは全く、見たことも聞いたこともありませんでした。今でこそ米津玄師さんとかミュージックビデオで使う人や、ミュージカルで演出家の宮本亞門さんが使ったりと、少しずつ目にする機会が増えていますが。これからも、完全にポピュラーなダンスになるのは難しいんじゃないかと思っています。大元はクラシックダンスからの派生の派生くらいで始まったそうです。大体1980年くらいから、いまのコンテンポラリーダンスのようなものが出来上がってきた。でも、どこからどこまでがコンテンポラリーダンスか分からない(笑い)。だけど、ダンス自体は、小学生から学ぶ人が増えてきたんで、これからは、コンテンポラリーダンスをやる人も増えるでしょう」。

日本では、まだこれからだが、芸術をバックアップする文化のあるヨーロッパでは、コンテンポラリーダンサーとして“公務員”として働いた。

「09年にドイツのカッセルの州立劇場にソリストとして契約してもらいました。州立劇場だから、身分は公務員でした。職務がダンスで、肩書が公務員。保険があって、有休があって、給料があって、毎日決まった時間に働いている。それで仕事内容がダンスということ。日本じゃ、なかなかありえないことですね」と笑う。

カッセルという都市は、首都ベルリンから車で1時間15分ほどの地方都市。

「カッセルの街中でアジア人はあまりいないので、『ダンス頑張ってね』なんて声をかけられました。劇場のチケットも2000円くらいとか安いから、見てくれる人も増える。ヨーロッパのエンターテインメントに対する歴史の奥深さを感じました。10カ国くらいの人間が集まっていたので、コミュニケーションは英語で。彼女を作ればドイツ語をマスターできるかなとも思ったんですが、ご飯を食べに行ったりできて、どうにか暮らせるくらいです」

コンテンポラリーダンスのコンテストは、バレエコンテストの中の1つとして開催されることがあるという。

「優勝したからといって、それで食べていけるというものではない。むしろ、どういう舞台に出たとか、誰と一緒に仕事をしたかが評価されていく。まさか、コンテンポラリーダンスで飯を食っていくようになるとは思わなかったけど、俳優業をやりながら、その良さを知ってもらえるように頑張っていきます」

踊る舞台を世界に見据えている。 【小谷野俊哉】