ジェーン・バーキンさんをインタビューしたのは6年前の夏だ。東日本大震災の支援公演以来6年ぶりの来日だった。

宿舎は東京・神楽坂の知る人ぞ知る瀟洒(しょうしゃ)なホテルで、招待元のメールを頼りにようやくたどり着けたが、そこが彼女の定宿ということだった。半世紀近いという「親日家ぶり」がうかがえた。

白Tシャツにさりげなくロールアップしたジーンズ、紺のコンバースのスニーカー姿はイメージそのままだった。初対面にもかかわらず、喜怒哀楽を隠さない。時に声を上げて笑い、この4年前に長女の写真家ケイト・バリーさんが急死したことに話が及ぶと涙がほおを伝った。

開けっ広げな「カリスマ」に思わず引き込まれた。エルメス社の社長が、飛行機で隣り合わせただけで、その名を冠したバッグの製作を懇願した理由が分かった気がした。

東日本大震災の一報をフランスで聞いた時、バーキンさんは間を置かずに飛行機に飛び乗ったという。

「日本行きの便はガラガラでした。46年前に次女(シャルロット・ゲンズブール=映画監督)がおなかにいたときに来て以来、日本には特別な思いがありました。避難所ではものすごくつらいはずなのに、レジ袋ひとつ分の生活物資しかなくても、皆さん心穏やかに過ごされていました」

当時バーキンさんはがん治療のさ中だったこともあり、周囲の反対を押し切っての来日だった。行動力に驚くとともに、言葉の端々に日本への深い理解がうかがえて、感激したことを思い出す。

長女ケリーさんが亡くなったのは震災の2年後。

「人生で一番のショックでした。その時、震災後の海岸で『孫を(津波に)さらわれた』と遠くを見ていた女性の姿を思い出したんです」

バーキンさんのほおを涙が伝ったのはこの話をした時だった。

亡夫がフランスの著名歌手セルジュ・ゲンズブールだったとはいえ、英ロンドン生まれの彼女がほとんど英語を聞き取れなくなっていることにも驚かされた。通訳を挟んで、インタビューはフランス語で行われ、終了後に英語で話しかけると、何度も聞き返された。こちらの発音の問題かと思ったら、本人が「今はフランス語オンリーなんですよ」と照れながら明かした。

あけすけな感情表現は確かにフランス的なのかもしれない。エルメスの代表的なバッグに名を冠され、仏文化省からその死が発表されたことになんら不自然さを感じないのはそのせいかもしれない。【相原斎】