2013年参院選出馬会見で、石原慎太郎さん(左)と「1,2、3、ダー」のおたけびをあげるアントニオ猪木さん(2013年6月撮影)
2013年参院選出馬会見で、石原慎太郎さん(左)と「1,2、3、ダー」のおたけびをあげるアントニオ猪木さん(2013年6月撮影)

アントニオ猪木さんが亡くなった。カリスマプロレスラーとしての姿は、子どものころからテレビで親しんできた。そのカリスマが、選挙に出馬して参院議員になった時は正直、驚いた。「スポーツ平和党」という名称も新鮮だったし、私はまだ入社前だったが、湾岸戦争前、イラクがクウェートに侵攻した際、ひとりでバグダッドに乗り込み、日本人人質の解放に尽力したのにもビックリ。国会議員時代にも北朝鮮への渡航を繰り返し、現地でプロレスの試合をしたり要人と面会するなどして、唯一無二の「猪木流スポーツ外交」スタイルを確立した。

プロレスラーとしての猪木さんを取材することはなかったが、国会議員の姿は、国会でたびたび目にしてきた。

そんな中、猪木さんから、何度か同じフレーズを聞いたのを覚えている。「俺を利用すればいい」だ。

2013年夏の参院選比例代表に日本維新の会からの出馬を決めた際、18年ぶりの国政復帰を目指す猪木さんにインタビューをした。破天荒なイメージを持っていたが、静かに淡々と語り続けた。新日本プロレス時代は、正規軍側で長州力らの「維新軍」と対決した猪木さん。最初に1989年の参院選に出馬した時は「世の中を変えようとぎらぎらした思いがあった」と振り返ったが、この時、気負いはまったくなかった。むしろ、維新躍進への「助っ人」を自任していた。当時、維新の「大阪側」には猪木さんへの警戒感があったと聞いたが、「出る以上は(党の)役に立ちたい。俺を利用すればいいんだ」と、言っていた。

この「俺を利用すればいい」というフレーズは、持論だった北朝鮮外交でも政府に対して、一貫して求めていた立場だったと思う。これまで北朝鮮には33回渡航。参院議員になった後の2013年11月、国会に無断で訪朝したとして登院停止30日間の懲罰を受けたこともあった。もちろん、国会のルールはルールで守るべきなのだが、猪木さんの外交観は、イラクの単身乗り込んだことにも代表されるように「現場主義」でもあった。「『外交に勝利なし』という言葉がある。両方が半歩譲らないと問題は解決しない」と、熱く外交論を語っていたこともある。

2014年3月、参院議員に復活して初めて予算委員会で安倍晋三首相(当時)に質問を挑んだ際も、北朝鮮問題が中心だった。前年の訪朝の際、日本の国会議員団の派遣を要請されたことを明かし、安倍政権の対応をただしたが、安倍氏は「日本では北朝鮮への自粛を要請している。適切に対応すべきだ」ととりつくしまもなく、話はまったくかみ合わなかった。安倍氏は、猪木氏に「子どものころ、手に汗を握りテレビの前で熱中しました」と語りかけていたが。

日本と北朝鮮の間では、最大の懸案事項である日本人拉致問題が進展せず、双方のパイプもどんどん細っている。2018年に訪朝した際にも、猪木さんは「俺を利用すればいい」と話していた。自身が築いた人脈、パイプが一助になれば…そういう思いは常に抱いていたと思う。

参院選出馬記者会見前に、赤いマフラーを手に取材に応じるアントニオ猪木さん(2013年6月撮影)
参院選出馬記者会見前に、赤いマフラーを手に取材に応じるアントニオ猪木さん(2013年6月撮影)

そんな猪木さん。維新の目玉議員として始まった2期目の国会議員生活では、UFOが飛んできた場合の政府の対応を防衛相に問うたり、プロレスラー時代にライオンをもらった話など、突拍子もない「脱線」話題も少なくなかった。予算委員会の質問で、いきなり「元気ですか~」と叫び、委員長に「元気が出るだけでなく心臓に悪い方もいるので」と注意されたことも。それでも、質問に立つたび「元気ですか~」を繰り返し、浸透させてしまった。

2期目の国会議員生活では、立場がめまぐるしく変わった。当初所属した維新が東西対決で分裂した後は、自身を導いた石原慎太郎さんが加わった次世代の党へ。石原さんの政界引退後は、新党「日本を元気にする会」を結成。代表に就任したこともあるが、志とは対照的に、だんだん「数合わせ」の1つの駒になり始めたように感じたこともある。「元気-」を離れた後は無所属に。体調も思わしくなくなり、車いすで議場を後にする姿を何度も見かけた。

国民民主党の会派入り会見で、左から玉木雄一郎氏、アントニオ猪木さん、小沢一郎氏(2019年2月21日撮影)
国民民主党の会派入り会見で、左から玉木雄一郎氏、アントニオ猪木さん、小沢一郎氏(2019年2月21日撮影)

3期目を目指すのかどうかが注目された2019年参院選を前に、国民民主党が一時、猪木さんの参院選擁立を模索。同年2月に猪木さんは国民の会派入りを表明し、国民の玉木雄一郎代表、国民と会派を組んでいた自由党の小沢一郎代表(当時)と3人で記者会見まで開いたが、出馬については明言せず「一寸先は闇ではなく、ハプニング」とけむにまくばかりだった。

「俺を利用すればいい」という言葉は、この時、もう聞くことはなかった。猪木さんは結局参院選に出馬せず、政界を退いた。

選挙では、ある意味「利用される」ことで自身の存在感の強さを示せた猪木さん。一方で、最後まで熱意を燃やした北朝鮮外交では、自身の「存在価値」を、形になる状態で引き出してもらうことはできなかった。初の「格闘技出身国会議員」として永田町に足跡を残した猪木さんだったが、この点は最後まで無念だったのではないだろうかと思う。【中山知子】