10月10日の公明党の連立政権離脱から、自民党総裁選で停滞していた永田町は、一気に大混迷に陥った。少数単独政権に陥った自民党で総裁に選出された高市早苗総裁が、そのまますんなり首相に選出される保障はなくなり、結託すれば数の上では自民党を上回る立憲民主&日本維新の会&国民民主党の勢力から、国民民主の玉木雄一郎代表を野党統一の首相候補に担ごうとする動きが浮上。「玉木首相」の可能性が急に高まったことも、混迷劇を象徴する出来事だった。
でも、ドタバタ政局は1週間で収束。維新が「寝返る」(野党関係者)形で自民との距離を縮め、自維連立政権実現に大きく歩み寄ったことで、「玉木首相」は幻となり、玉木氏が維新に「二枚舌のよう」と恨み節を口にし、釈明に追われる形になった。
個人的には、自民と維新のトップ会談が行われた15日の前日、14日の段階で、高市氏か玉木氏かの勝負はついたように感じている。
14日は自民党の両院議員懇談会が行われ、出席者によると、高市氏は公明の連立離脱について所属議員にわびたという。当初は「大荒れ」予想もあったが、1時間半ほどで終了。石破茂首相が「石破おろし」にさらされていた時のような紛糾や険悪な空気感も、ほとんどなかったという。
両院議員懇談会の後、高市氏には講演やイベント出席などの予定が控えていた。党本部を出た高市氏は、スタートアップ関連のイベントで講演した際に「総裁にはなったが、『首相になれないかもしれない女』と言われている、かわいそうな高市早苗でございます」と、自虐的にあいさつ。一方で「こういう時もあきらめず、首相指名のその瞬間まであらゆる手を尽くします」と述べた。首相就任に向けた、並々ならぬ執念を口にした。
一方の玉木氏は、それまで「公党の代表として、内閣総理大臣を務める覚悟はあります」と繰り返し発言していたが、高市氏の「執念」の前に、「覚悟」では、やっぱり弱かった気がする。「玉木首相」案は、公明党が連立離脱する前にも永田町で実際に、水面下でささやかれていた案件。実際にそのポストが手に届くかもしれない距離になってきた時に、何が何でも取りにいってやるという執念が、発信力にたけているはずの玉木氏からは、聞こえてこなかった。多くの人を失望させたと言われても、仕方ないかもしれない。
基本政策で一致しない立憲民主党から担がれることに最後まで慎重だった玉木氏の言動を理解する声は、当然、多い。それでも「玉木さんは政治家として、政局での現実的な立ち回り方をもう1度学んだ方がいい」(野党関係者)と厳しい声も聞いた。
そんなゴタゴタ続きの永田町に17日、村山富市元首相が101歳で亡くなったという訃報が飛び込んだ。社会党の委員長だった村山さんは、本来は組むことなどない自民党と組んで、1994年6月に発足した自社さきがけ連立政権の首相になった人物。当時政権から離れ、政権復帰に執念を燃やしていた自民党との「ウルトラC」で、「究極の野合」と批判された村山さんをトップとする連立政権ができた。1993年8月の細川連立政権で政権を失った自民党は、そのおかげで約1年で政権に復帰。その後、自社さ政権が終わりを迎えても自民党は連立相手を変えながら政権運営を続けてきた。よくも悪くも、自民党の権力に対する執念なんだろうと感じる。
2015年11月に、村山さんにインタビューする機会があり、首相就任時の心境を聞いた。村山さんは「私が総理になるのは論外で、断り続けた」としながらも「過渡的に、あんな政権が生まれるのはあり得ることだと思う。(自身の在任期間が)戦後50年の節目に重なり、歴史的な1つの役割があったんじゃないかと思う」と振り返っていた。「これまで争った政党が話し合って一緒になって、政治の『軌道』を変えていく。今までの政治の、行き過ぎと是正が絡み合えばいいと思った」と、現実的な判断だったこともにじませていた。
高市氏が、維新を連携相手に引き込もうとしているのも、そうしなくては政権が維持できず、現実的判断に迫られた側面も大きい。
自民党が近年、政権を失ったのは、村山政権が発足する前年の1993年8月と、民主党政権が発足した時の2009年9月。この2つの政権交代の間は、16年だ。2009年の政権交代から16年後が、今年2025年に当たる。そのため、公明党の連立離脱後、「もしかしたら政権交代が起きるのではないか」と色めき立つ関係者もいたが、21日に召集される臨時国会では、自民党の高市氏が、女性で初めての首相に選出される見通しだ。そこに至るまでの道のりには、「執念」と「現実的判断」というキーワードが、大きく影響していたように感じる。【中山知子】(ニッカンスポーツ・コム/社会コラム「取材備忘録」)




