万感の至りだ。美浦で約11年、栗東で約3年、現場で計14年ほど取材をさせてもらった。1年の3分の1は出張に出るような生活。高松宮記念での◎○の馬連本線決着は競馬の神様からの餞別(せんべつ)だったのかもしれない。JRA全10場に香港、ドバイ、英国、フランス、米国、マカオ。地方も加えれば、本当にいろんな競馬を見てきた。

どこまでいっても「やりきった」とは言えないのが記者の仕事。やっぱり心残りはある。何度となく取材した調教師の引退原稿を書けないこともそのひとつ。国枝栄師は来年2月で定年を迎える。誰にでも分け隔てなく接する仏であり、競馬サークルへの提言を1冊の本にして出版するなど一本筋の通った人。今となっては現役唯一の1000勝トレーナーでもある。

国枝栄調教師(2018年5月16日撮影)
国枝栄調教師(2018年5月16日撮影)

誰にとっても“初めて”の記憶は鮮明だ。国枝師が東京農工大の獣医学科に入学し、初めて東京競馬場のアルバイトに出たのが76年1月31日。開催補助の業務に従事する中で、装鞍所で騒がしい馬が気になった。「ばんばかばんばかうるさいのがいたんだよ。いろんなのを蹴っ飛ばしてたな」。それが後に天馬とうたわれるトウショウボーイ。同じレースにはグリーングラス、ミスターシービーの母となるシービークインもいた。同年末にトウショウボーイは年度代表馬に輝く、いわゆる伝説の新馬戦だった。振り返れば振り返るほど、競馬の魅力が年輪のように増す1日になった。

競馬への入り口は中学時代。友人に影響を受け、ともにタニノムーティエの走りに心を躍らせた。東京農工大の獣医学科に入学し、新入生歓迎の行事で馬術部の上級生に声をかけられて、馬にまたがった。すぐさま馬術部に入部。その友人は高校進学後に競馬熱が冷めていたのに、当の国枝青年は間もなく馬の仕事で食っていくと決意するまでになっていく。そんな師のラストイヤー。取材を通じて対象者の内面、ルーツを知るのが仕事の醍醐味(だいごみ)。心の動きを取材して、文字に残したい思いは正直、今もある。

記者とてサラリーマン。自分は人生初の部署異動で、1日から現場を離れて別の公営競技が業務の中心となる。偶然にも今週の大阪杯にはシックスペンス、ステレンボッシュが出走する。前者の馬名は幸せを呼ぶとされる英国の6ペンス硬貨が由来。馬名の入る紙の馬券は新天地でのお守りになるかな? 同馬の単勝、そして“牝馬の国枝”が誇る桜花賞馬を絡めた馬券を買って、活躍を見届けたい。最後に。みなさん、本当にありがとうございました。

(ニッカンスポーツ・コム/競馬コラム「ケイバ・ラプソディー~楽しい競馬~」)