<南海6-4近鉄>◇1988年(昭63)10月15日◇大阪球場

無数の紙テープが秋風に吹かれ、スタンドからグラウンドにたなびいていた。ミナミのビルの谷間に、夕日が沈む。暮れなずむ大阪球場に、南海監督、杉浦忠が立った。

「長嶋君の言葉ではありませんが、ホークスは不滅です。いっそうの応援をお願い致します。行ってまいります」

立大の盟友、長嶋茂雄がジャイアンツ引退時に残した「わが巨人軍は永久に不滅です」の一節を借りた杉浦のあいさつだった。その年、南海電鉄はホークスをダイエーに譲渡。3万2000人が詰めかけた10月15日の本拠地最終戦で、南海は優勝争い真っただ中の近鉄を8回の岸川勝也の決勝2ランで下した。新生ホークスで杉浦は初代監督を務め、フロント入り。01年11月11日に急性心筋梗塞で帰らぬ人となった。66歳だった。

88年10月15日、南海の大阪球場最終戦を終え、場内1周してファンに別れを告げる杉浦監督(中央)ら
88年10月15日、南海の大阪球場最終戦を終え、場内1周してファンに別れを告げる杉浦監督(中央)ら

同14日の葬儀は、自宅があった大阪・堺市の西本願寺堺別院で営まれた。小雪交じりの冷たい風が吹く、寒い日だった。焼香をすませて寺を出て、驚いた。集団が門前を埋めていた。緑の地に白で「H」と染め抜いた南海ホークスの小旗を手にし、懐かしい緑の帽子をかぶったオールドファンが亡きエースを待っていた。

エース杉浦は伝説の人。監督・杉浦は人間らしい人だった。キャンプ地の夜のスナックで酒が入ると、ご機嫌で踊り続けた。88年のシーズン途中で球団譲渡が浮上し、メディアに追われるようになると「おれを追い詰めないでくれ」と悲鳴のような声で質問をさえぎったこともあった。59年日本シリーズで巨人を相手に4連投、4連勝を成し遂げたタフな姿は、なかなか見られなかった。だが杉浦の神髄はそんなものではなかった。

「ファンにとっては、その日の試合こそがすべてですから」。葬儀から何年もたったのち、志摩子夫人に聞いた言葉だ。プロ1年目の58年から全盛期の64年まで、年間の登板が50に満たなかったのは右腕の血行障害の手術明けの62年だけ。なぜ連日のように投げ続けたのか、理由を知りたかった。夫人は「ファンはエースを見に球場に来てくださる。なのに、昨日投げたからといって杉浦が投げなければ、がっかりされるでしょう。2度と球場に来られないファンもおられるかもしれない。だから主人は毎日のように投げたんですよ」と教えてくれた。コンディショニングを重視する今なら身を削る行為に思えた連日の登板も、杉浦にとっては当然の仕事だった。

夫人の話を聞くうちに、小旗を振り「すぎうらぁ~」と叫んだ幾人ものファンの姿がよみがえった。大エースへの惜別の思いを込めた門前の熱気だった。(球場名など当時、敬称略)【堀まどか】