当初、野球部の同級生は約70人いた。だが、最後まで残ったのは23人だった。1日でやめた者もいれば、「練習着がなくなった」と、よく分からない理由で去った者もいた。

 大野 あの頃は沖水(沖縄水産)にあこがれて入ってくるヤツばかり。当然、表のきれいなところしか見ていないから、ギャップがすごかったんです。

 もちろん大野も苦しんだ。最初の悩みは、寮生活だった。

 大野 とにかく寝る時間がなかったです。

 消灯時間に定められた午後10時半は、むしろ下級生が最も忙しくなる時間だった。先輩の夜食作り、練習着などの洗濯、マッサージ…。こうした仕事にレギュラーも控えも関係なく、1年生全員の義務だった。午前2時から3時頃にようやく寝床に入り、6時からは朝練がスタート。下級生だけの練習だが、時々先輩が抜き打ちで見にくる。もし寝坊が見つかれば、大変なことになる。眠る時も緊張していた。

 食事にも苦労した。寮の食事はバイキング形式で、先に食事をする先輩たちがおかずを食べ切ってしまっていた。1年生がテーブルにつく頃には白飯しか残っていなかった。

 大野 寮のロッカーにツナ缶としょうゆ、それからマヨネーズを常備していました。それをご飯にぶっかけて食べるんです。でも、毎日だとさすがに飽きますよね。

 週に1度のペースで両親に連絡して、寮の近くまで来てもらった。練習後に車でレストランに連れて行ってもらい、ハンバーグなどをおなかいっぱい食べるのが唯一の楽しみだった。

 一方で、食事は1年秋から正反対の悩みに変わった。バッテリー陣は、監督の栽弘義の自宅に隣接する第2寮で生活した。食事は栽の厳しい監視がついた。

 大野 バケツいっぱいぐらいのご飯、おかずがテーブルに並ぶんです。監督が「食え。でかくならんぞ」と。ほんと、めちゃくちゃな量。食べきれなかった時は服のポケットに詰め込んで、持ち帰ったり、トイレで吐きながら食べたこともありました。

 先輩から受ける重圧もあった。グラブの中に針金をしのばせ、練習中につついてくる先輩もいた。シート打撃で先輩投手の足に打球をぶつけてしまった時は、ファストフード店「ロッテリア」のセットを2週間届けさせられた。理不尽の連続だった。

 大野 やめようとは思わなかった。覚悟して入ったから。めちゃくちゃだったけど、沖水でやるというのはこういうもんなんだと。今の時代では絶対にあり得ないですけど、こういう経験が、ギリギリの勝負で生きたのかもしれませんね。甲子園でも最後の1点は与えなかった。

 寮は6人1部屋で、2段ベッドが3つ並べられただけの簡素な部屋だった。いつも先輩と一緒で息を抜けなかった。唯一、離れられたのは授業中だけだった。

 大野 睡魔との闘いもあったけど、授業の時だけが自分たちにとって、唯一気が休まる時間だった。

 大野はケガが多い選手だった。1年時は右足を疲労骨折した。2年の春には試合中の死球で左手首を骨折した。だが、この時も病院には行かなかった。先輩から「休むなよ」と言われ、うなずくしかなかった。

 大野 痛くても、病院には行かなかった。あれくらいでは、病院に行くことを認められるような雰囲気じゃなかった。

 死球を受けた左こぶしは今も曲がったままだ。「痛い」と言えない雰囲気。これが、のちに右肘痛を隠す決断にもつながっていく。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年6月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)