大野は甲子園が終わってから、右肘の故障について監督の栽弘義と話した記憶はない。ただ、人づてに言葉が伝わってきた。

 「大野を壊してしまったことを申し訳なく思っている」と言っていること。95年に外野手として、巨人からドラフト5位で指名された時にも「大野はバッターじゃないんだ。本来はピッチャーなんだ」と言っていたこと。そんな言葉が耳に届いた。

 大野 自分のケガで監督が批判され、申し訳ない思いでいっぱいでした。だから、プロに入って余計に頑張りたいと思いました。打者でもやれるんだと。監督のためにも、絶対に打者として成功するんだと思っていました。

 九州共立大時代、とんでもない記事が出回った。大野が「いつか監督を殺してやる。毎日そればかり考えていました」などと発言したという記事だった。

 大野 僕はそんなこと言ってないんです。記者の方に誘導尋問されて、それが僕の本心のように書かれた。僕は栽監督を信じていました。もし甲子園の決勝戦で投げさせてもらえていなかったら、その方が後悔したと思います。

 この記事が出回った時、栽が「大野はこんなことを言うヤツじゃない」と言っていたと聞いた。やはり人づての言葉だが、大野はうれしかった。

 大野は巨人で5年、ダイエー(現ソフトバンク)で2年を過ごした。プロ7年間で1軍の通算成績は31打数5安打2打点、1本塁打でプロ野球人生に別れを告げた。

 その後4年間は福岡で輸入車の営業をしていた。07年に沖縄へ戻った。大野は33歳になっていた。この時、栽を訪れて沖縄に戻ったと報告した。「そうか。頑張れよ」と声をかけてもらった。これが最後の会話になった。この年の5月、栽は65歳で他界した。

 大野 栽先生と酒を酌み交わしながら、野球の話をするのが夢、目標でした。まぁ、100年早いって言われるでしょうけどね。でも、いろんな話をしたかったし、先生に教わりたいこともたくさんあった。本当に残念です。

 大野は今、沖縄で「うるま東ボーイズ」の監督として中学生を指導している。

 大野 僕の故障の話はしません。時代が違いますから。でも、「無事これ名馬」じゃないですけど、故障に強い体を作るのが大事だとは思っています。求めるのは、速い球を投げられる体。そして、ボールを遠くに飛ばせるための体作りですね。

 2・2リットルの弁当箱を義務付けている。ゆで卵を持参させ、朝の練習前やおやつとして間食させている。疲労回復や筋力アップに効果があるとされるタンパク質を効果的に摂取するためだ。

 大野 おにぎりより早く食べられますからね。うちの子どもたちは、プロレスラーみたいな体をしています(笑い)。試合相手にも体の大きさを驚かれます。

 何より大切なチームのルール。それは故障を隠さないことだ。

 大野 野球にケガは付きものです。だから、ちゃんと情報の共有というか、どこが痛いかを確認します。中学生でも隠す子もいます。僕は「必ず報告しなさい」と言っています。

 入団したばかりの1年生に1年間のノースローを指示したこともある。故障の防止は、大野にとって指導の根幹にある。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年7月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)