肩、ひじ検査は指導者の意識も変えた。開始から5年後の98年夏、横浜(神奈川)の監督の渡辺元智は絶対的エースの松坂大輔(現中日)を準決勝の明徳義塾(高知)戦で先発させなかった。当時、日本高野連の事務局長だった田名部和裕(現理事)は、検査導入の中心だった大阪大医学部整形外科の越智隆弘(現大阪警察病院院長)に電話をかけた。「エース一辺倒だった高校野球でも、大事な試合に連投させない監督が出ました」と報告した。

越智は、電話口で「おおっ、そういう人が出てきましたか」と声のトーンを上げた。かつては「甲子園の優勝投手は、プロでは活躍できない」といわれた。80年夏の横浜・愛甲猛(元ロッテ)、82年夏の池田(徳島)畠山準(元横浜)、89年夏の帝京(東京)の吉岡雄二(元近鉄)らは、プロ入り後は打者で活躍。根拠はなかったが、高校時代の過酷な連投による疲労も理由の1つと考えられた。

田名部 (松坂の先発回避は)今までの高校野球ではなかったことでした。昨夏の大会を見ても、ほとんどが継投。今は複数投手を作らないと、甲子園に出るのは難しくなっています。(検査から)故障への意識や考え方は画期的に変わったと思います。

検査の方法や場所も、大きく変わった。94年春のセンバツからは、甲子園球場の三塁側脇の「レントゲン室」で実施されたが、09年の球場改修を機に消滅。16年夏までは、各都道府県の病院で撮ったレントゲン写真を持ち込み、検診する形が取られた。

検査を機に、障害予防に関する意識が徐々に変化し始めた。甲子園での投球禁止を未然に防ごうと、各都道府県でも対策が講じられ、セルフチェックする意識や態勢が整い始めた。

田名部 「僕は大丈夫かな?」と心配になれば、地元の有名な先生や病院を探して「肩、ひじはどうですか?」と聞く。何か異常があれば、先生から今は休んだ方がいいよ、と適切なアドバイスをもらえる。

将来を見据え、各地方との連携も強化した。検査開始から、200カ所以上の地域で専門医による研修会を開催。94年春に全国の加盟校に配布された障害の予防などを指導する「ピッチスマート」は改訂され、現在は「ピッチスマート3」が販売される。日本高野連の事業課長の井本亘は「各都道府県で連携し、スポーツ障害予防に取り組む人も増えた」と話した。

17年春のセンバツからは肩、ひじ検査を甲子園で実施せず、各都道府県での検診に変更した。事前にチェックシートを配布し、検診の結果を日本高野連に提出する。検査の目的は故障を発見するのではなく、予防にある。井本は「普段からケアや、故障に注意する形を取れるのがベスト」と話した。

16年11月、日本高野連は「高校野球200年構想」協議会を設置した。今春のセンバツが90回、今夏に選手権大会が100回を迎えることを受け、高校野球の発展を目的に作られた。3つの柱の1つには「けが予防・育成」が入った。井本は「将来を考えた時、小、中学生から意識を高めることも大事」と話した。障害予防への取り組みは年下の世代にも広がる。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

(2018年4月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)