全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第6弾は、2004年(平16)夏の甲子園で北海道勢初優勝を飾った駒大苫小牧の香田誉士史さん(46=現西部ガス監督)です。雪国の常識を覆す練習法で同校を史上6校目の夏2連覇へ導きました。「徹底力」と「反骨心」でハンディを乗り越えた開拓者の挑戦を全5回でお送りします。


05年1月、雪が残り、ピカピカに凍ったグラウンドで練習する駒大苫小牧の選手たち
05年1月、雪が残り、ピカピカに凍ったグラウンドで練習する駒大苫小牧の選手たち

「外に出ろ。グラウンドが黒いか白いかの違いだ」。香田がそう言った時、何人もの選手が耳を疑ったに違いない。04年の全国制覇で一気に知名度を上げた駒大苫小牧の冬の1日。外野ノックから始まり年々エスカレートしていった雪上練習は、いつしか紅白戦にまで発展した。一面真っ白の雪に覆われたマウンドには、後の沢村賞右腕で、現ヤンキースの田中将大も立ったことがある。

香田 将大には「甲子園だと思って投げろ」って言ったよ。ケガをする。肘を壊す。風邪をひく。そういう声はいっぱい耳にしたけど、言われれば言われるほど「うるせーよ」と。選手が、どんどん進化する。春が来なくてもいいなって思うほど楽しかった。

95年に、九州生まれの香田が駒大苫小牧に赴任してから長年「壁」となっていた冬は、10年近くたった頃、力を蓄える絶好の季節へと変貌していた。

北海道の冬は厳しい。1年のうち約5カ月もの間、グラウンドは雪に閉ざされる。太平洋に面し雪が比較的少ない苫小牧市も、例外ではない。その間、室内練習場や体育館で基礎練習を行うのが、この地方の常識だった。せっかく技術が上達しても、雪解けの頃には後退している。悩める香田を救ったのが、社会人野球の大昭和製紙北海道(94年にクラブチーム化の後、解散)で選手、監督として活躍した我喜屋優(67=現興南監督)だった。

我喜屋 北海道は冬は室内っていうのがある。「それじゃあ冬眠する熊さんと一緒だね」って言ったんだ。発想の転換。室内でも練習はできるけど、個人の動きしかできない。ならば、外でやればいい。

沖縄出身の我喜屋と佐賀育ちの香田は「外様同士」で馬があった。「目からウロコ。北海道人になりかけていた時にブスッて刺された感じ」という香田は、さっそく雪をどけ、選手を屋外に集めた。

香田の赴任4年目となる98年から在籍した磯貝剛(35=現室蘭シャークス監督)が苦笑いする。

磯貝 最初に聞いた時は「マジで!?」と思った。寒さは全然、感じない。恐怖心しかなかった。イレギュラーが多くてキツイけど、意外とやれちゃう。

練習をボイコットされたこともあった。スライディングでは二塁で止まれず、左翼前まで滑って行く選手がたくさんいた。それでも、春になって実戦を行うと、サインに対する反応は格段に良くなった。ヒントを与えた我喜屋が言う。

我喜屋 僕は香田の反骨精神を利用しただけ。寒い中で頭を使っていると、心も強くなる。雪解けとともに、精神力はもっと強くなっている。


西部ガスの新球場でコーチと話し合う香田誉士史監督(右)
西部ガスの新球場でコーチと話し合う香田誉士史監督(右)

04年夏からの3年間は、北海道民にとって「奇跡の夏」だった。全国高校野球選手権で深紅の大優勝旗が白河関どころか、一気に津軽海峡を越えた夏。翌年の2連覇。3年連続で決勝に進み最後は準優勝に終わったが、駒大苫小牧の活躍は北海道の短い夏を熱狂に包み「幻の3連覇」と呼ぶ人まで現れた。

小中高と一緒だった幼なじみの森田剛史(46=現佐賀商監督)は、香田のことを経営学者ドラッカーの言葉を借りて「チェンジリーダー」と表した。常識を覆すことを恐れず、変化を生む。初優勝時33歳の九州から北海道にやってきた青年監督の情熱と反骨心は、宿敵だった雪さえも溶かしエネルギーに変えた。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

◆香田誉士史(こうだ・よしふみ)1971年(昭46)4月11日、佐賀県佐賀市生まれ。佐賀商で春夏3度の甲子園出場を果たし、駒大に進学。95年駒大苫小牧に赴任し、翌年監督就任。01年夏、同校を35年ぶりの甲子園に導き、04年夏、北海道勢初の全国制覇。翌05年には57年ぶり史上6度目となる夏の甲子園連覇を果たした。06年夏は早実との決勝再試合の末、準優勝。07年夏、初戦敗退後に辞任し、08年3月退職。鶴見大、社会人野球の西部ガスでコーチを務め、17年11月に西部ガス監督就任。家族は妻と2男。

(2018年1月27日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)