1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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現役時代はその強打から怪童と呼ばれ、指導者となってからは球界一の打撃コーチとうたわれた中西太(85=日刊スポーツ評論家)にとってもあの日のゲームは特別だった。

中西 かぜでフラフラやったんじゃないかな。でもそんなこと言っておれんからね。選手はみんなボロボロの状態で戦っていたわけやからね。

◆第1試合 9回表2死二塁。代打梨田の中前打で二塁走者の鈴木が生還。土俵際で4-3と勝ち越し、ホームベース後方で中西は鈴木と抱き合い、転がり回って歓喜を表現した。

中西 私も長い野球人生を歩ませてもらったけど、選手と抱き合って喜びを表したのはあのときだけやからねえ…。

その抱き合った唯一の選手だった鈴木貴久は近鉄コーチだった04年、40歳の若さで急逝。中西の言葉は1度、そこで詰まった。

西鉄で選手兼任監督だった63年に奇跡的な大逆転優勝を遂げた経験があった。残り4試合で3勝1分け以上が優勝条件。いずれもダブルヘッダーだった。だが、近鉄での大逆転優勝は延長時間切れ引き分けで成し遂げることはできなかった。

中西 夢枕に出とったわねえ。引き分けにならなければいいがと思っておったが、その嫌な予感が当たってしまったね。

実は前年のシーズンを終えた時点で中西は近鉄を退団する予定だったという。ところが西鉄時代の後輩でもあった仰木コーチが監督就任したことで一変する。

中西 どうしてもということでね。ただあのころの近鉄はベテランから若手へ選手を切り替える難しい時期。若手を育てるということで、協力させてもらおう、となったんだね。

西本監督のもとで79年に初優勝を遂げ、その後はチームの中心として活躍した梨田、羽田、栗橋といったメンバーは30代後半へ。金村、鈴木、村上ら若手への切り替えを進めながら、王者西武に対抗するという難しい局面で誕生した仰木体制を打撃コーチとして支えていた。

そんな中でブライアントというケタ外れのパワーを持った途中入団の外国人の力を十二分に引き出しつつ実績のない若手やルーキーにときにはバットにキスして打席に送り出した。中西流の選手操縦術だった。

中西 結果としてあのシーズンは優勝できなかったが、若手を育てる方針でスタートした1年目の締めくくりに、ああいう試合ができたということが翌年の優勝につながったんやね。

近鉄は翌89年に西武、オリックスとの優勝争いを最後の最後で制した。近鉄を退団以降も指導者としてのキャリアは続き、オリックスで再び仰木とタッグを組み、日本一も手にした。盟友となった仰木は05年、病魔に倒れこの世を去った。「仰木くんは勝つことによって監督としての自信をつけていったねえ」。中西は再び目を細め、少し遠くを見つめた。(敬称略)

◆中西太(なかにし・ふとし)1933年生まれ。香川県出身。高松一から西鉄入団。数々の打撃タイトルを獲得。引退後は西鉄、ヤクルト、日本ハム、阪神、近鉄、巨人、ロッテ、オリックスで監督、コーチなどを務めた。