日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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沖縄の空は青かった。焼失した首里城を見舞った後、興南高に寄って、オリックスにドラフト1位で指名された左腕投手の宮城大弥(ひろや)に会った。

入学してきた1年生のとき、コーチの砂川太から「ちょっと、みていってよ」と声を掛けられたのが、まだ15歳で薄暗いブルペンで投げ続けた彼だった。

あれから3年の歳月が流れた。1年と2年の夏に甲子園出場。U15、U18で日本代表を経験。サウスポーで最速149キロを計測するまでに成長した。

たくましくなった宮城と向き合ったのは、オリックスと仮契約を交わした2日後だ。「U18の韓国で食事があわず、日本に帰ってから太りました」と笑った。

「ぼくとしては、まずファームで主力として投げられるようになってから、1軍に上がっていければなと思っています」

今ドラフトでは興南高で内野手の勝蓮大稀がソフトバンクから育成4位指名を受けた。球界では沖縄県から輩出されたアスリートの活躍が目立っている。

西武で本塁打王の山川穂高、18年最多勝男の多和田真三郎、ソフトバンク東浜巨、DeNAで売り出し男の神里和毅、巨人宮国椋丞、大城卓三ら、20人以上を沖縄勢が占める。

浦添ボーイズ顧問の大城和則(61)は「県外の大学、社会人で指導経験を積んだ監督、コーチらのUターンで、沖縄のレベルが上がった」と説明する。

大城は「学童野球の人口減少が心配」としながら「以前はリーダーがいなかった。井の中の蛙(かわず)ではダメということ。今ではウオーミングアップの仕方でさえ変わってきた」という。

1年生で関東遠征している宮城は「体力、技術などすべてに力の差を感じました。でもぼくは沖縄から甲子園に行きたかった。人間的にも成長できました」と野球留学する気はなかったという。

地元で鍛えられた高校生のプロ輩出は、沖縄に指導者の人材、環境が整ってきたことが一因のようだ。プロ10球団が春季キャンプをして、身近にもなった。

社会人で大昭和製紙に所属、興南監督として10年甲子園春夏連覇を遂げた我喜屋優(69=興南学園理事長)は「閉鎖的だった沖縄が変わってきた。沖縄は本土の野球と対等のレベルから、今や追い越そうとしている」と語った。

野球王国の沖縄。教える側の資質がそのレベルを引き上げながら、今後も野球界の底辺拡大に取り組んでいく。