日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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上田利治と長年親交があったのは、神戸医療福祉大副学長で野球部監督の高橋広(66)だ。夫人の厚代が徳島・宍喰(ししくい)町(現海陽町)出身だったことから、縁ができた。

地元の鳴門工(現鳴門渦潮)監督を務めていた当時、阪急の高知キャンプを見学した時のこと。すでに阪急監督として優勝経験が豊富だった上田に、グラウンドから声を掛けられた。

「初対面も同然なのに、下から『おいっ、高橋君か。降りてこいよ』と言われて、ブルペンに案内されたんです。普通はマネジャーが間に入ってやることでしょうから驚きました」

1993年(平5)、鳴門工30周年の記念講演に招いた際、上田に謝礼を渡すと「これ、野球部のために使ってくれ」と返された。高橋は「なかなかできないことで感動しました」と振り返る。

高橋が鳴門工を指導し始めて、99年のセンバツに導くまで20年を要した。春夏合わせて計8度の甲子園出場。その後、14年にU-18の日本代表監督、15年に母校の早大監督に就いた。

早大での学生時代、高橋は東京6大学リーグに1試合も出場していない。指導者志望だったこともあるが、同じ捕手のポジションの1年後輩には、後に巨人からドラフト1位指名を受ける山倉和博がいた。

「日本ではスター選手しか監督になれない傾向が強い。でも上田さんはメジャーのように、現役時代の実績はないけど、監督としてはすごかった。わたしも同じ捕手だったし、よく似ているかもしれませんね」

現役時代は控え捕手だった上田だが、プロ野球の監督に登用されると、阪急を5度のリーグ優勝に導いた。人生のプロセスと下積みが、高橋の生きざまとダブった。

U-18監督だった当時は、岡本和真(巨人)、栗原陵矢(ソフトバンク)、高橋光成(西武)らを率いて戦った。異例の抜テキだった早大監督1年目、リーグ優勝と学生日本一に導いた。

「大学選手権で学生に任せると、決勝戦からローテーションを組んでくるんです。バカヤローって感じです。勝てる保証がないんだから、1回戦から勝てるピッチャーからつぎ込んでいくべきなんです」

高橋はハイレベルで緻密な上田野球に学んできた。阪急は1死三塁から、内野ゴロで1点を奪う野球をしていた。

「投球の高さがストライクゾーンにきたら三塁走者がスタートを切る。打者は必ずゴロを転がす。サインはエンドランじゃないけど、投手のボールの高さによって打者と走者が瞬時に反応する。短期決戦では、こういう作戦が明暗を分けます。これってプロでもボーッとしてたらできません」

監督、あるいは教育者という視点でも理想像を追いかけてきた。高橋は「監督とは経営者。上田さんのように熱血漢であることが絶対条件でしょう」とうなずいた。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。