日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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名ショートの吉田は、1955年(昭30)を手始めに、遊撃手のポジションで史上最多9度のベストナインに輝いた。最後になったのが65年で、66年は一枝修平(中日)に取って代わられた。

全盛だった吉田が9度受賞した間に、それを2度阻んだ遊撃手が、61年河野旭輝(中日)と、後に監督としてあいまみえる63年広島の古葉竹識(毅=当時登録名)だった。

85年はその広島と、2年目の王貞治が率いた巨人との三つどもえで、シーズン終盤まで熾烈(しれつ)な優勝争いを演じる。この年、古葉が辞任を正式表明したのは9月28日のことだ。

古葉は広島市内の球団事務所で、オーナー松田耕平に成績不振の責任を取って辞意を申し入れた。吉田阪神は、巨人と同率2位の広島に7ゲーム差をつけていた。当日の巨人戦(甲子園)は雨天中止。徹夜組のファンは残念がった。

「ぼくらの世代の監督といえば、広岡(達朗)さんに、野村(克也)、仰木(彬)、長嶋(茂雄)、森(祇晶)、上田(利治)らがいて、古葉もその時代に戦った1人でした。地味だったけど、信念を押し通す、抜け目のない名監督だったと思います」

75年4月27日阪神-広島(甲子園)のダブルヘッダー第1試合で、監督ジョー・ルーツは8回、佐伯和司の掛布雅之への投球がボールと判定されて激高。主審松下充男に抗議、仲裁に入った塁審の竹元勝雄に暴行を働いて退場処分を受けた。

監督の吉田にとっては初めて監督に就いた年で、阪神は首位をキープしていた。一方のルーツはそのまま退団し、途中でコーチから監督に昇格したのが古葉だった。広島は最終的に球団初優勝。吉田と古葉は何かと因縁めいた。

「巨人のワンちゃん(王貞治)はおおらかで、人を押しのけてといった性格でないのを知っていたから、正直いって強烈なライバル心というのはなかったかもしれない。でも広島は強かったです。古葉の野球は選手の心理を読みながら、足を絡めた機動力を使い、緻密で、しぶとかった。どうしてシーズン途中に辞めるんだろうと思っていました」

広島には11勝15敗と負け越したが、シーズン最終盤の10月12日、14日の直接対決で連勝し、ついに王手をかける。ランディ・バースの50、51号などで逆転し、2番手の工藤一彦が勝ち、福間納に初セーブがついた。

それでも吉田は会見で「今日はあんまり興奮してませんよ」と自ら切り出した。取材陣が趣味のマージャンにたとえて「(最高得点の)役満のテンパイ(上がり直前の意味)ですな」と問い掛けても、「こんなときに冗談が言えますかいな」とそっけなかった。

そのときの本心を問われた吉田は「広島に勝って初めて優勝を意識した。本当です。これでいけると確信しました」という。去りゆく古葉と歓喜のゴールにたどり着く吉田。2人の将は明暗のコントラストを描く。いよいよ勝ちどきを上げる時がきた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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