大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。

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仰木のスタイルは「管理野球」からはかけ離れていた。戦争を体験した父親を持つ監督は、時にグラウンド以外でもルールで縛り付けがち。だが、仰木のチーム作りは規制とは打って変わって自由奔放だった。

遠征先では番記者を引き連れて食事に出向き、飲んで、歌った。夕刊紙に朝帰りを報じられてもノープロブレム。門限などあってないようなものだった。遠征先なのに、なぜか朝から都内で犬を散歩させていることもすっぱ抜かれた。

試合前練習中はほぼ毎日、グラウンドでランニングを繰り返した。たまに打撃練習をチェックするヘッドコーチの中西太とケージ裏で会話を交わすと、再び走りだした。

夏場になると、上半身裸で走った。二日酔いのアルコールを抜くためだともささやかれた。ただ体調維持とともに、選手のコンディションをチェックして回っているようにも見えた。

それでも練習後はしっかり番記者の囲みに応じた。決して冗舌ではなかったが、近鉄球団の広報担当がメディア対応を重んじたから、指揮官もそのレールに乗った。

現役時代、西鉄ライオンズ(現西武)は「野武士集団」と称された。中西、大下弘、豊田泰光、稲尾和久ら豪快なスターがそろった。そのメンバーに名を連ねた仰木が監督になり、「管理」と無縁となったのは自然な流れだった。

仰木のコーチ、監督時代を知り、近鉄、日本ハム、楽天で指揮を執った梨田昌孝は、組織のトップとしてのメリハリに接してきた。

「よく話していたのは、ガツガツと連勝せんでええからな、勝ったり負けたり、負けたり勝ったりでええから、と。勝率が5割近辺にいればチャンスはあるんだからと言っていたね。ただ、サインミスには厳しかった」

あるゲームの終盤、1死三塁の場面で、近鉄内野陣は前進守備を敷いた。ショートゴロを処理した米崎薫臣が間に合わないと判断したのか、ホームでなく一塁に送球した。

ホームインを防ぐベンチの意図を理解していないプレーの後、仰木はすっかり米崎を起用しなくなった。

グラウンド外はフリーダムだが、試合ではサインで縛るケースが目立った。しかも、状況判断に厳しく、いかに「情」を切り捨てる選手起用、采配に徹するかにこだわった。

仰木は投手コーチと幾度も衝突した。それは確執とまで言われたが、緊迫感のある強いチームの証明だったかもしれない。(敬称略)

【寺尾博和編集委員】

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