西武平石洋介ヘッドコーチ(42)は、臨時コーチで訪れた松坂大輔氏(42)との再会を喜んだ。

「いっぱいしゃべったので。野球の話から、たわいのない話まで。僕はコーチで、大輔は臨時コーチで、こういう立ち位置でグラウンドに立てたのは初めて。うれしいですよね」

友であり、ライバルであり。98年の甲子園を沸かせた。あれから今年で25年。四半世紀がたつ。

「そんなにたつんですね。ちょいちょい会ってたんで、大輔とは。なんかこう、不思議な感じといえば不思議な感じですね」

PL学園(大阪)の主将を務めていた平石ヘッドは、98年春のセンバツ甲子園準決勝で初めて、松坂氏がエースを務める横浜(神奈川)と対戦した。

「春に初めて対戦して。うわさではね、横浜高校の大輔とか(沖縄水産の)新垣渚が一番注目されてて、でも同じ高校生やからいけるやろと思ってて。甲子園で始まって、見たら『何ぃ!? えぐいな!』と衝撃だったですよね。まっすぐ、変化球、けん制、フィールディング、全部すごかったので。衝撃受けましたよね」

2対3で惜敗し、雪辱を期した夏の甲子園。今度は準々決勝で対戦した。延長17回の死闘は、四半世紀たとうとする今でも鮮明に語り継がれている。

それでも、平石ヘッドにとって最も色濃い記憶は試合前にあるという。

「朝イチの試合やったんで、投手は室内練習場で動いてから、グラウンドで遠投を始めるわけですよ。そしたら大輔が、三塁側から右中間の一番深いところまで軽々しく投げて。最後は100メートルくらいを、ターンって投げてたのが『えぇーーっ!?』っていうような低い球で。それが一番衝撃的でしたね」

名選手を多く輩出した、いわゆる“松坂世代”でも、現役のNPB選手は1人だけになった。

「もう和田毅しか、日本のプロ野球ではいなくなって。僕は早々とコーチになって、その時はいなかったですけど、コーチも増えてきて、僕らの世代というか、若い世代の人間がもっともっと野球界を引っ張って行けたらいいなと思います」

だから、同じく松坂世代の赤田将吾外野守備走塁コーチ(42)も含め、指導の立場でグラウンドに立てたことがうれしい。

「大輔も、見て感じた印象をいろいろ言ってくれている。いろんな経験している人間が来てくれて、そこで見た印象って大事なので。うれしいですよね。もっと話をしたいですね、3日間。いろいろな話を」

長い付き合い、話も尽きない。松坂世代の熱い夏は続いている。【金子真仁】